瞑想で心を観察をする。
この表現は現代人にとって、ものすごく分かりづらいののだと思う。
「心を観察しましょう」「気付きましょう」と言われても、一体それはどういうことなんだろう。何をどうやったら良いか分からない。
本にも本質的なことは書かれていないし、あるのはヒントだけ。
まるで各々が手探りでやるようなものだ。
根気強く続けれいればコツが分かるかもしれないけれど、手順がちゃんと言語化されていないから、自分が正しいことをやっているかどうかも分からなくなる。
確かに瞑想というのは、脳の高機能な部分を扱うものだから、その本質が言葉で表現出来なくてもおかしくはないのだけれど。
それでも、もう少し分りやすい表現はないんだろうかと、いつも思う。
(そういう意味で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」はすごい)
この観察というものを、自分なりに解釈すると、
「自分自身の体験を外部化すること」
「自分自身に起こるイベントをトリガーすること」
だと考えている。
体験の外部化とは、瞑想の本でもよく書かれているとおり
「自分の思考」=「自分自身」
「自分の感情」=「自分自身」
という状態を捨てて「自分」と「体験」の間の距離に気付くことだ。
そして、そのために「イベントをトリガーすること」が必要になる。
「イベントをトリガーする」というのは「心の働きに気付く」ということと同じ意味だ。
だが「自分自身にイベントが起きる」「それをトリガーする」という表現で考えた方が、僕はなんだかしっくり来る。
たとえばタイマーを付けて瞑想をすれば、瞑想中にも、何度か残り時間が気になるかもしれない。それが「イベント」だ。
その時は「残り時間が気になるというイベントが起きたんだな」と思って、それを理解する。
「ああ、もっと瞑想がしたいのに、明日は月曜日だ」と思うかもしれない。
それも心に起きたイベントだ。イベントが起きたことを理解する。
たとえば、エアコンの風が気になったとする。それは「意識がエアコンの風に向いた」という「イベント」だ。
これもイベントの発生だと理解する。
こうやって自分自身に起こるイベントを、ひとつずつ発見すること。
そもそも、イベントが起きているということに気付くこと。それがトリガーするということだ。
より多くのイベントをトリガーして、そして理解すること。そしてリリースすること。
これを繰り返すことが瞑想の観察なのだと、いま僕は考えている。
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ところで「観察の瞑想」で、心の中で言葉を使うことは、決して悪いことではない。
たとえば「あ、いま俺は、仕事のことを考えたな」とか、心の中で考えても良いのだ。
言葉は、自転車に乗る時の補助輪のようなものだ。
「非言語的に気付く」というのは高度で難しいから、言葉を使って観察することに慣れてきてからで良いと思う。
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