Saturday, December 3, 2016

「深い集中状態」から「ただ存在する」感覚へと

以前にも増して瞑想に集中できた朝。
30分は今までになく、あっという間に過ぎた。

瞑想には細かく分けると100個もの種類があるそうだが、すべての瞑想は「何もしない」「ただ存在する」という状態を目指すものらしい。
僕は「呼吸に集中する」という方法で、だんだんと「ただ存在する」という感覚を得るようになってきた。

瞑想を始める。呼吸に集中する。だんだんと雑念が消えてゆく。呼吸と一体になってゆく。
そして「環境の中で、呼吸をしている自分」に気付く。環境の一部として呼吸をしている感覚を覚える。呼吸と自分の関係に気付く。
映画で言えば、カメラの視点が変わり、自分というものを別のアングルで捉え直すようになる。「引きのアングル」で。

そして、だんだんと言葉というものが消えていく。言葉の存在力が弱まっていく。「言葉は、自分ではない」とうことに気付く。
相変わらず言葉のフレーズ自体は、自然に浮かんでくる。だがそのバックグラウンドに「自分」という暖かく、大きな存在があることに気付く。言葉はそのオプションに過ぎない。
この深い集中状態を、おそらく3分間ほどは保てたように思う。

だが、初めての境地、あまり経験したことがない境地というものは怖いものだ。
深い集中状態に入りながらも、同時に、様々な「疑」の心が、言葉として生まれてきた。
「集中しながら雑念が浮かぶ」というのは妙な話かもしれないが、実際にそういう現象が起こるようだ。

「この境地は素晴らしい、絶対に忘れたくない、手放したくない」
「もういちど、この状態にたどり着けるのだろうか、不安だ」
「瞑想を4ヶ月も続けているのに、ようやくこのレベルにたどり着くというのは、遅いんじゃないか」
「素晴らしことの後には悪いことがくるんじゃないか。あと数ヶ月もしたら、瞑想をすっかりやめてしまうんじゃないか」
「この境地にたどり着くまでの”意識的な努力”は辛い。それよりオートマティックに立っどり着きたい。悟りとは自分から目指すものではなく、自発的に現れるものなんじゃないか?」

こんなにも多くの「疑」の心が浮かんできた。
特に「〜を初めて〜ヶ月も経つのに〜の成果しか出ていない」というのは、瞑想中にも、日常的にも、たびたび頭の中に現れてくる疑いだ。

今はまだ、このような疑いの心に答えられるだけのものがない。
そこで思い出す。瞑想は究極的には、何かを求めるためのものではない。ただ「おこなう(そして、おこなわない)」ためにあるものだ。


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