Thursday, February 11, 2100

瞑想・座禅 よくある質問

Q. 瞑想中って、何を考えるんですか?

座りながら目を閉じて、自分の呼吸に意識を集中させるのが、一番ベーシックなやり方です。
色々な考えが湧いてきて、呼吸から意識がそれたら、また呼吸に意識を戻す、ということを繰り返します。

Q. 心を無にするんですか?

そうとは限りません。

たとえばスポーツにも、テニスやバスケなどの種類があるのと同じで、瞑想にも色々な種類があります。
「心を無にしなさい」と教えているものもあるし「心は無にしなくても良い」と教えているものもあります。

Q. 何のためにやるんですか?

リラクゼーションや精神統一、ストレス対策のためです。
でも、人によって目的は違います。

Q. どれぐらいの時間やるんですか?

特に決まってません。

僕の場合、短い場合は朝に5分、夜に5分ぐらいです。
長い場合は1時間続けて瞑想をすることもあります。

Q. 座禅はお寺に行ってやるんですか?

家でひとりで出来ます。
僕は仕事の休憩中にも、職場で座禅をしたりします・

Tuesday, March 21, 2017

感覚に対処する vs ただ経験する

ひとつの感覚に対して

- 対処しようとする
- ただ経験する

この二つの違いは大きい。

普段、僕らは不快な感覚からは逃れようとする。
「逃れようとする」のは対処の一種だ。
「忘れようとする」「変えようとする」「気をそらそうとする」のも対処だ。

逆に「味わう」「放っておく」「観察する」というのは「経験する」という行為だ。

僕らは何か感覚が生じた時、いつでも対処しようとしている。
何らかの対応を取ろうとする。
そして常に「ベストな対処」を探し求めている。

だけど、そもそも「対処」なんかしなくて良いとしたら?

たとえば、不快さを起している感覚を味わってみる。
そうすると、実は不快だと思いこんでいた感覚は、そんなに恐くないものだと分かる。
むしろ、その感覚を味わうのを楽しむことさえ出来る。
そして「今、この感覚を経験している」と気付くと、喜びさえ感じられる。

実は、不快さからは、逃げようとしなくても良い。
感覚は味わったり、観察したり、その経験を楽しむことが出来る。

「感覚が起こっている」ということ自体、じぶんというものが存在している証拠だ。
これを経験として楽しまない手はない。

Monday, February 20, 2017

雑念は捨てるな!

瞑想で、雑念は捨てなくても良い。
(正確には「雑念を捨てない」やり方も存在する)

何をするか。
ただ座るだけだ。そして、心がおもむくままに任せておく。
本当に、なにも努力しなくて良い。

すると、何もしていないはずなのに、時間が経つと、いつの間にか心が落ち着いてゆくのが分かる。

たとえば仕事のことで頭がいっぱいなら、そのままで放置しておく。
仕事のことは頭の中をぐるぐると、20分も30分も回り続けるかもしれない。
だけど、そのままにする。
むしろ、雑念が回ることを歓迎する。
なぜならこれは「心を整理するために必要なプロセス」だからだ。

マインドフルネスの瞑想では「心の働きを観察すること」が重要視される。
だが、それさえしなくても良い。
なぜなら、観察には努力が必要だ。そして、努力にはエネルギーが必要だ。
だが、そもそもエネルギーが無い時にはどうすれば良いのだろう?
答えは、エネルギーを全く使わないやり方をすれば良い。

努力をまったくしない瞑想。
例えば「睡眠中には自然と記憶が整理される」と言われるように、この瞑想では、自然に心が整理されてゆく。
「雑念が回りきるまで回った時」に、心の平穏が訪れる感じだ。

マインドフルネスの本「サーチ・イン・サイドユアセルフ」では、この「ただ座るだけ」という手法は、瞑想の「一番簡単なやり方」として紹介されている。
だが「難易度の低さ」と「効果の低さ」は必ずしも比例しない。
むしろこれは、極めて役立つ手法だと僕は考えている。

心が落ち着くまでに時間はかかるけれど、とても持続性が高い。
ほとんど自動的に、いつの間にか良い気分になることが出来る。そして、集中力を取り戻すことが出来る。

なので特に集中力が落ちているときにはオススメだ。


たとえば運動でも「ごく軽いランニング」が、一番気分を良くしてくれる場合がある。
同じように瞑想でも、一番努力しないやり方が、一番効果的という場合があるのだ。


なので僕は、雑念を捨てないことが、とても気に入っている。

Saturday, February 18, 2017

「世界は良いものだ」という価値観

死角。


身近に存在するものほど、見えない。
たとえば僕らは空気に囲まれているが、空気を意識することはほとんどない。

これと同じように、僕らのあまりに身近な価値観は、見えない。
価値観の根底にあるものほど、死角にある。
だがその逆に、面積は巨大だったりする。


ところで今日、僕は

「世界は良いものだ」

ということに気付いた。


ここでいう「世界は良いものだ」というのは、
「安心できる場所だ」とか「味方だ」とかいうのと似た意味だ。


- 世界は悪いもの、敵である
- 世界は自分の外側にある
- 多くの敵の中に、自分が脅えながら存在する

- 世界は良いもの、味方である
- 世界と自分には境目がない
- 良い世界の一部分として、自分が存在する


世界に対してどちらのイメージを持つかによって、気分はまるで変わってくる。
世界に対しての認知。すなわち「世界観」は僕らの感情、行動に大きな影響を及ぼす。
この持続性は無限だ。(認知自体が変わらない限りは)
そして僕らは影響を受けていることにさえ気付かない。


僕は日々、瞑想をしながらも、自分の心の中に、いつも不安がくすぶっているのを感じていた。
だけれど、なかなか深い安心を感じることが難しかった。

だが、そもそも「なぜ不安を感じるのだろう」ということを問いかけてみたとき。
この心は「世界を敵のように感じている」「世界に対して脅えている」ということが分かった。

そして理解したのは「世界は敵だ」という図を描きながら、安心を感じることは難しいということだ。
たとえ安心を感じられたとしても、それはごく一部分的なものになる。
なぜなら「99の敵」の中で「1の自分」が安心しようとしている状態なのだから。

だがこの逆に「世界は良いものだ」「世界は安心できるものだ」と考えれば、99の良い世界の中に、1の良い自分が存在することになる。
つまり、安心の色を塗る面積が、大幅に違うのだ。


僕は自分が、世界を敵だと感じていることにすら、意識的には気付いていなかった。
これが、またひとつ「大きな面積を占める死角」を理解した。


だがまだひとつ、大きな問題がある。
「世界は良いものだ」と考えた時に行き当たる、論理的な矛盾だ。

たとえば本当に「世界は良いもの」なのだとすれば、なぜ世界に詐欺師がいるのだろうか?
「世界は良いもの」という価値観を持つならば、詐欺師に騙された時には、世界をどう理解すれば良いのだろう?
世の中の危険を避ける時に、この価値観は有用なのだろうか?

この矛盾を放置するのは、危険だ。
なぜならいつか、矛盾に気づいた時に、自分という読者が冷めてしまう。
特定の世界観を持つのは、フィクションのようなものだ。
だからこそ読者のために、矛盾の少ない物語を描く必要がある。

ただこれは前述のとおり、フィクションなので、事実かどうかはさておき、整合性さえ取れていれば良い。
「自分という読者」の支持さえ得られれば、それで良いのだ。


「世界は良いものだ」と考えても「世界は悪いものだ」と考えても、どちらにせよ、どちらかが事実ということはない。どちらもが事実だとも言える。
だが「世界は良いものだ」と考えたときの方が、僕の気分が10倍も良くなることだけは分かっている。
重要なのは事実ではなくて、世界をどう理解するかという手順だ。


それで僕は、
「詐欺師は【世界が良いものだ】ということに気付いていない」
「【世界は良いものだ】と気付いていない人だけが、悪さをたくらむ」
という結論に行き着いた。

これで整合性は完璧だ。
僕の頭の中ではつじつまが合った。
少なくとも、自分という読者を納得させられそうな気はする。



世界は良いものだ。
なぜなら、そう思うことが、僕にとってものすごく楽な生き方だと思うから。



Friday, February 17, 2017

「人より優れていたい」の罠

「人より優れていたい」という気持ちが、人にはある。
僕にもあなたにもある。
決してないとは言わせない。

たとえば、こんな話がある。
とある海外で、年収3000万円の人が、年収3010万円の同僚を羨んだそうだ。
これは分りやすいタイプの「人より優れていたい」だ。

たとえばブランド志向の人が、高級品を求めるのは何故なんだろう。
これも分りやすい「人より優れていたい」だ。
逆に、ブランド志向を馬鹿にする人もいる。
だけど「ブランドに踊らされていない俺の方が賢い」と考えているとしたら、これも「人より優れていたい」だ。

たとえば、最近オープンしたオシャレなカフェにいち早く並ぶ人にも「人より優れていたい」が紛れているかもしれない。

たとえば、瞑想を何年も続けている人さえ、
「他の人よりうまく瞑想したい」
「瞑想している自分は、他人より優れている」
という風に、無意識に考えているかもしれない。


「人より優れていたい」と。
あともうひとつ。
「人より劣っていたくない」。

この二つは強かれ弱かれ、意識しているにせよ意識していないにせよ、僕たちが共通して持っている気持ちだ。


この気持は果たして、必要なんだろうか?
言葉を変えれば、僕たちの幸福に、寄与しているんだろうか?


なぜなら、あなたが人より優れるということは、他の誰かがあなたより劣るということだ
そして他の誰かが優れるということは、あなたが人より劣るということだ。
世界の半分の人間が優れていれば、残り半分は劣っていることになる。

これは絶対に両方であり、片方だけが起こることはない。
「すべての人が、人より優れている」というのは、論理的にあり得ない。


「人より優れようとすること」を支持する人は、比較が幸福に「寄与している」と考える。
よく語られる言葉は、

「人より優れようと思うから、人間は成長する」
「人より優れようと思わなければ、どうやって技能を伸ばすのか」

というものだ。

人間の幸福は、人より優れようとすることによって生まれる。
成長のための努力こそが尊い、という考え方だ。

だけど、この考え方にはひとつの隠れた前提条件がある。
それは「人より優れようと思ったほうが、人より優れられる」という仮定だ。
だけど、本当にそうなのだろうか?
「人より優れたいという気持ち」と「人より優れている度合い」の相関性について、統計は取られているのだろうか?(もしかしたら、取られているかもしれないけれど)

逆に「人より優れたい」という気持ちが邪魔になって、結果的に人より優れられない、というケースも考えられないだろうか。

そしてもし、この二つに相関があったとしても「人より優れたい」と思い、実際に「人より優れる」ことは、僕らの幸福度を上げているのだろうか。
「人より優れること」は当たり前のように「良いもの」だと思われているけれど、本当にそうなのだろうか。


別に僕は「人と比べるのをやめた方が」「人間は成長できる」と主張したいわけじゃない。
「比較をやめた方が良い」とも思わないし、そもそも「人間の成長の価値」さえ、本当には信じていない。


だけど「人より優れたい」という気持ちが、僕らが思っているよりも、ずっと有害に働いているんじゃないだろうか、幸福に寄与せず、むしろマイナスに働いている可能性が高いんじゃないかとは考えている。


別に、人より優れなくても良い。
僕は自分の幸福のために、寄与する行動を取りたい。

たとえば「人より優れた趣味」なんか、持たなくて良い。
人より優れたいがために、本当は気の進まないことに、時間を費やすことはない。
たとえそれが世間で、どれだけ良いものだと言われていようと。


こんなことを考えたのは、今日、瞑想をしながら音楽を聴いていて(音楽を聴くために瞑想をしていて)、すごくそれが楽しかったので、これを趣味のひとつにしようと思った。

ただ、それ自体はすごく楽しいことのはずなのに、途中で雑念が湧いてきた。
「音楽を聴くなんて、簡単だ」「あまりに受動的な趣味だ」「音楽を演奏するほうが、ずっと尊い」という風に。

たとえば「やり抜く力 GRIT(グリット)」に書かれているように、なるべく自分の能力を引き出す人生の方が良いのではないだろうか?
音楽を聴くばかりで、少しも自分の能力が磨かれない趣味は、ぬるま湯に浸っているようなものなのではないだろうか?
と考えて、音楽を聴くことを、そのままには楽しめなくなってきた。


だけど、一番重要なのは「なぜ自分が、そう思うのか?」ということだ。
そして「何故こんな気持ちを持つのか?」と考えた結果、この意識のベースには「人より優れた趣味を持ちたい」という前提があることに気付いたのだ。

「自分の能力を磨くタイプの趣味」=「優れたもの」
「能動的な趣味を持つ自分」=「人より優れた趣味を持った自分」

この図式が反応しているのだなと気付いた。

なので僕は、それと同時に、人より優れた趣味を持たなくても良いことにも気付いた。
「人より優れたい」という気持ちを無視すれば、別に、能動的な趣味なんか持たなくても良い。
たとえそれがどんなに尊いものであろうとも、良いものであろうとも、少なくとも、今の僕には気が進まない。



こうやって趣味ひとつを選ぶのにも「人より優れたい」は、判断に影響を与えてくる。
自分自身が影響されているという事実に気付けば、より右と左は決めやすくなるだろう。

Sunday, February 12, 2017

幸福のパラドックス | 北風と太陽の話

この世界の多くは、パラドックスで出来ている。

たとえば「幸福」と「幸福を夢想」することは、まったくの別物だ。
だが僕たちの脳はけっこう馬鹿だから、よくこれを取り違える。


たとえば「年収が高いほど幸福になりやすい」というのが統計的に事実だとしても、
「年収が高ければ幸福になれるのに」と夢想し続けることは、幸福ではない。

たとえば「瞑想が幸福感をもたらしやすい」というのが事実だとしても、
「もっと瞑想する時間があれば、幸福になれるのに」と夢想し続けることは、幸福ではない。

たとえば休日に飲む一杯のコーヒーは、もちろん美味い方が良いにしても、
「もっと美味しいコーヒーが飲めるはずなのに」と思いながら飲むコーヒーは、不味く感じる。



僕たちは「良いものは、良い」と考えがちだ。
だけどもし不幸を感じているならば、それはまったく世界の仕組みを分かっていない証拠だ。

僕たちはよく「良いもの」に対する「ふるまい」も、全て、良いものだと考えてしまう。
だが「良いもの」に対しておこなわれるふるまいは、反対に「悪いもの」だという可能性がある。

僕らはこう考える。
「良いものを追い求めているのだから、良いふるまいをしているはずだ」と。
「良いものを追い求めているのだから、それに近づいているはずだ」と。

だけど実は「追い求める」をことで、逆に「求めるもの」から遠ざかっているかもしれない。
むしろ、そのパターンのほうが多いんじゃないだろうか。


たとえば「人に優しくすること」が良いことだとしても、
「人に優しくするのを強制すること」は、良いことじゃないかもしれない。

たとえば「新年の抱負を持つこと」が良いことだとしても、
誰かにそれを強制されたら、まったくやる気は起こらないかもしれない。

「経営者目線で仕事を考える」のが優れた働き方だとしても、
社長が社員にそれを言うのは、逆にモチベーションを下げるかもしれない。

たとえばダイエットをした方が健康に良いとしても、
ダイエットのことばかりを1日中考えていたら、逆に食欲が湧いて太ってしまうかもしれない。


この世界は多くのパラドックスで出来ており、求めるものを手に入れるのは、いちどそれを忘れる方が近道だったりする。

特に幸福なんていう奴は、特別にトリッキーな動きをする。
すごく近くにあるはずなのに、とても繊細で恥ずかしがりだ。
僕たちが欲しがれば欲しがるほど、幸福は逃げてゆくように出来ているのだ。


幸福に出会うためには、ちょっとだけ遠回りをする必要がある。

「幸福を夢想し続ける」というのは、逆努力だ。
だから不幸になる努力をやめるだけで、少しだけ幸福に近づくことが出来る。

旅人の服を脱がそうとして、北風を吹き付け続けるのはやめよう。
その逆に、太陽のように幸福を照らしてあげよう。


とても抽象的な話だ。
だけど、きっと伝わると信じている。



Saturday, February 11, 2017

不安は存在しない | 感情のラベリングが有害になる場合

「不安」は存在しない。
僕たちが「存在していると思い込んでいる」だけだ。


僕たちは自分たちの感情にラベリングをする。

ある感情は「不安」と呼ぶ。
ある感情は「安心」と呼ぶ。
ある感情は「失望」と呼ぶ。
ある感情は「期待」と呼ぶ。


ラベリングは、非常に強力なツールだ。うまく使えば武器になる。
自分の感情に対するラベリングがうまければうまいほど、感情を理解し、それを賢く扱えるようになる。

自分の感情を説明できないよりは、説明できた方がずっと良い。
うまく生きることが出来るようになる。
「今まで説明がつかなかった、モヤモヤとした感じ」に、はっきりとした名前が与えられた瞬間は、まさに天啓だ。(ユリイカ!)
過去よりもずっと世界がクリアになり、頭は冴え、魂さえ救われたような気持ちになるだろう。


だが同時に、別のレイヤーにおいて考えると、感情というものは、世界にそもそも存在しない。
「感情」という名前での、様々なバリエーションでの、言葉でのラベリングが存在するだけだ。
これは人間の説明だ。

たとえばひとつの状態を「不安」と呼ぶ。
これは状態に対する「説明」であり「実体」ではない。
あくまでも言葉による働きであり、認知的な理解の方法のひとつだ。

たとえば動物の世界では、特定の状態を「不安」だと表現したりはしないし、そう理解したりもしない。
自分たちの特定の状態に対してラベリングをするのは、人間特有の行為だ。


そしてこの「感情のラベリング」は、どんなシチュエーションでも常に、幸福に働くとは限らない。
ラベリングするからこそ、自分の状態をフラットに観察できず、過剰にマイナスの状態に陥ってしまうという場合もある。
これは、非常に不幸なことだ。


たとえば。

コーヒーを飲みすぎた昼下がり、カフェインの効果で胸が締め付けられている人がいる。
これに「不安」という言葉で理解すれば、彼の脳はそれを「不安」だと理解する。
そうすると何故だか分からないが彼の「つらさ」は増大する。
ひとつの状態を「不安」だと理解することによって、状態はより深刻になるのだ。
いわば、自分で自分を洗脳しているような状態だ。


だけど彼は、これを「単なる、肉体の反応だ」と理解することも出来る。
「そういえば、今日はコーヒーを飲みすぎているな」「カフェインの効果で、胸が締め付けられているだけだ」と理解することも出来る。
そうすると何故だか「つらさ」は減少する可能性が高い。


そしてここで重要なポイントは、ひとつの状態を「心理的なもの」としてラベリングするか「肉体的なもの」として理解するかは、自由なのだということだ
たとえコーヒーを飲みすぎていなくたって、いつだって自由だ。


今感じ取っているのは、心理的現象なのだろうか、それとも肉体的現象なのだろうか?
だけど「どちらなんだろう」という疑問には、あまり意味がない。
なぜならこの二つはお互い、同じもの、表裏一体のものだ。

僕たちは、常に肉体的な現象を通してしか、心理的現象も感じ取ることが出来ない。
そして実は、肉体現象を理解する手法として、心理上のラベリングをおこなっているに過ぎない。

肉体現象なしの「不安」や「期待」も存在しない。
仮にもし存在したとしても、感知することさえ出来ないだろう。
(胸が締め付けられない「不安」や、胸踊らない「期待」を想像できるだろうか?)


では、どんな時にラベリングをおこない、どんな時にラベリングをおこなわない方が良いのか。

ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)が楽になるなら、そうするのが良いだろう。
ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)がつらくなるならば、やめた方が良いだろう。
「いま、効果的に働く方」を選んであげるのがいい。