Sunday, January 1, 2017

幸福レベル = 追求する能力 x 味わう能力

幸福は「追求する能力」と「味わう能力」のかけ算によって決まる。

しかし僕たちは、この二つの中で後者の「味わう能力」が著しく低い。
そして「味わう能力」が存在することにさえ、そもそも気が付いていない。

同じ物事を経験するなら、ただ無条件に、幸福のレベルは自動的に決まるのだと思いこんでいる。
たとえば同じ値段の料理であれば、自分の味わい方なんか関係なく、まったく同じ味がすると考えている。
いくら人生の中でそれが反証されようとも、これを無邪気に信じ続けている。

たとえば同じ料理を二回食べて、前と同じように楽しめなかった時、僕らはそれを「飽き」と呼んだりする。
もしくは、シェフの腕が悪かったのだろうか、体調のせいだろうかと考えて、特に理由は分からないまま、忘れてしまう。
そして、今度はより感動を与えてくれるような、まったく新しい店の、まったく新しい料理を探したりする。
だけどそれでも、以前の感動を味わえるとは限らない。
なぜなら自分自身が味わう心構えがないからだ。


全く同じ料理でも味わい方によって美味しさがまるで変わるように、幸福も味わい方によって全くその中身が変わってしまう
客観的に見れば、いかに幸福そうな条件が揃っていても、本人の味わう能力が低ければ、中身を存分に享受することは出来ない。
実は、幸福を味わうこともひとつの能力であり、心がけや訓練によって育まれるものなのだ。


僕たちは幸福のために努力をする。
もっと賢くなれば、もっと知識をつければ、もっと良い部屋に住めば、もっと仕事がうまくいけば、もっと健康状態が良ければ、もっとモテれば、もっとお金があれば、もっと美味しいコーヒーが見つかれば、もっと良い行きつけのカフェが見つかれば、もっと好きなことをする時間があれば、きっと幸せになれるだろうと信じている。だからそのために具体的な行動を起こす。

だけどたいてい、計画通りには行かない。
「これさえあれば幸福になれる」と思ったものが手に入ったやいなや、すぐに感動は薄れ、自分にとって当たり前のものになってしまう。
それが人間の摂理なのだろうか。
いや、違う。これは「幸福を味わう能力」が低いこと。
新しいものが手に入った途端「味わう行為」をやめてしまうということが大きな理由だ。

幸福になるための準備にいくら時間をかけても、いくらよりよい人生を追求しても、それを味わう時間がなければ、いつまでも幸福にはなれない。


もちろん、より良い幸福のために努力することも重要だ。
結局は、仕事があるからこそ1杯のコーヒーを飲めるわけだし、良いオーディオ機器があればより音楽を楽しめる。

だが最高のコーヒー豆を買って、コーヒーメーカーを用意して、ネットでコーヒーについて調べ尽くしても、実際にコーヒーを飲まなければ、永遠に味わうことは出来ない。
幸福もそれと同じように、実際に味わうということが重要だ。


さて、幸福を味わうというのは一体、具体的にどうすれば良いのだろうか。
その答えは、単に「味わう」という行為をしてみることだ。

たとえばこれは、コーヒーを一杯飲む時の心構えと似ている。
一杯のコーヒーを空想にふけりながら、味もわからないような状態で飲み干してしまうことも出来るだろう。
だけど香りをかいで、口に含ませ、ゆっくりと味を楽しむことも出来る。
「よく味わう」という感覚は、僕らが誰しも経験したことのあるものだ。それを「幸福」や、多くの「体験」にも差し向けることが出来る。

また、同じことが「喜ばしいマインドフルネス」という表現で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」という本に紹介されている。時間があれば読んでみてほしい。


No comments:

Post a Comment