Tuesday, December 6, 2016

サーチ・インサイド・ユアセルフ | 命がかかっているように呼吸する

瞑想の本「サーチ・インサイド・ユアセルフ」には「命がかかっているように呼吸する」という表現が紹介されており、最初、僕は首を傾げた。
「命がかかっている」という表現には「ガチガチに体を緊張させて、頑張る」というイメージがあったからだ。
それは瞑想に求められる態度とは全く逆のはずだと思った。

しかし今では「命がかかっている」ということを、別の角度で考えるようになった。
たとえばこう考えてみよう。
瞑想中に集中できなければ、その後に自分は、死ぬ。
「ダモクレスの剣」が頭の上に吊るされており、失敗すればそいつが落ちてくる。
集中するか、死ぬか。二者択一の受胎だ。

このように自分の命がかかっており、それを真剣に遂行しなければならないとき。
人はどうするのが適切だろうか。
おそらく、最も効果的にそれを遂行する手段は「注意」を向けつつ「リラックスする」ということなのだ。

僕たちは「集中する」ということの意味を履き違えている。
単に体を緊張させても、集中状態には入れない。それではただ疲れるだけだ。
かといって単にリラックスするだけでも、集中状態ではない。それはただだらけているだけ。

集中状態に入るには、注意とリラックスのバランスが取れている必要がある。
なおかつ、そのお互いが高いレベルで融合する時に、集中状態は起こる。
どちらかだけが高い状態でも、両方ともが低い状態でも、集中状態は起こらない。
ここで重要なのは「両者を高いレベルでバランシングさせる」ということだ。

たとえば次のような「注意」と「リラックス」のバランスがあるとすれば、集中状態に入れるのは最後の「D」の状態だ。

[A] 注意 強い : リラックス 弱い
[B] 注意 弱い : リラックス 強い
[C] 注意 弱い : リラックス 弱い
[D] 注意 強い : リラックス 強い

厳密に言うと、人は物事に直接「集中する」ということは出来ないのかもしれない。
「集中」というのは、行為ではなく状態だと思う。
人ができるのは「注意を向けること」と「リラックスすること」であり、その結果として「集中状態」が自然と起こるのだ。
これは瞑想の本質にも通じる。
(それが言語的なプロセスを経るか、非言語的なプロセスを経るかの違いはあるかもしれないが)

瞑想においても、集中状態に入るということは、おそらくスポーツ選手が「ゾーンに入る」ということとすごくよく似ている。
人が深い集中状態に入る時、そこには無駄な頑張りはない。むしろ心地良さしか感じていない。
「命がかかっているように呼吸する」には、深い注意と、深いリラックスの両者が必要だ。

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