僕は未来志向の人間だ。
こう書くと良く思えるかもしれないが、実はそうではない。
正しく言うと「未来志向」であり「不安志向」だ。
たとえば、僕が休日に多く考えることは「いつ、この休日が終わってしまうか」ということだ。
そして「どんな過ごし方をしたら、後悔しないだろう」と考える。
読書をしていれば「瞑想をしなくて良いだろうか?」と考えるし、
瞑想をしていても「瞑想で休日を浪費していないだろうか?」と考える。
これは「あとで後悔しないだろうか?」という、未来志向の考え方である、ということに気付いた。
その他にも、
「どうすれば、明日からの仕事を良くすることが出来るか」
「どうすれば、将来の不安をなくすことが出来るか」
「どうすれば、仕事のキャリアを作れるか」
「いつ、人生が終わってしまうだろう」
なんてことを、僕はよく考える。
考えのほとんど、99%以上は未来に関することで占められている。
ポジティブ・ネガティブに関わらず、考える事の殆どは、過去でも現在でもなく、まだ来ていない時間、未来のことなのだ。
だが自分の思考とはあまりにも長く連れ添っているので、自分自身でこのことに意識的でなかった。
これは、子どもの頃からそうだった。
たとえば遊園地に行くと「いつ、この楽しい時間が終わってしまうのか」ということばかり考えて、悲しくなっていた。
逆に、過去のことを思い出すのは苦手で、一体どんな出来事があったのかも、ほとんど思い出すことが出来ない。これはもう、びっくりするぐらい。
昔のことを思い出すのがあまりにも苦手で、まるで全ての思い出が欠けてゆくようで、たまに悲しくるぐらいだ。
過去のことを考える能力がきわめて低い。この能力が磨かれていない。
だから今日は、瞑想をしながら、過去について考えていた。
意識的に過去のことを思い出してみた。
そもそもこの能力を日常でほとんど使っていないから、出てくるのが遅い。
だけどたとえば、
「人生で、一番印象深かったことは何だろう」
「過去に一番、人にやさしくしたのはいつだろう」
「○○さんとの関係で、一番印象に残っているものは何だろう」
ということを、自分に問いかけて、思い出そうとした。
そうすると、人生でほとんど感じるチャンスのない、たまにしか訪れない、けれどもよく知っている、奇妙な安堵を感じた。
いくら未来について考えてもなかなか感じづらい「人生の意味を感じている」という感覚があった。
僕と同じように、自分が未来志向だと思う人は、たまには過去について、瞑想をしながら、深く掘り起こしてみても良いかもしれない。
Saturday, January 21, 2017
Saturday, January 14, 2017
自分はどこにいる?
自分はどこにいるだろう。
僕の場合は、胸のあたりに「自分」を感じる。
胸のあたりの感覚を、無意識に「自分自身」として認識している。
胸のあたりに生じる感覚は、肉体的現象として処理していない。
ここで感じるものを「気分」とか「気持ち」という認識で受け取っている。
たとえば逆に、足の痛みであれば、肉体的な感覚としてとらえる。
たとえば背中の感覚も、ほとんどは肉体的な感覚として受け止める。
だけど胸のあたりの感覚は、自分自身であり、自分の心だと受け取っている。
だがこれも、単に設定値の違いによるものだ。
人によって「これの部分にある感覚が、自分だ」というものは違うはずだ。
だがこの、肉体的感覚を「自分自身だ」と認識する範囲が大きければ大きいほど、ショックを受けたり、疲労を感じたりする度合いが大きくなるように思う。
つまり、肉体に生じる感覚を、外部的なものとして処理できていない状態になる。
たとえば足が痛いと「疲れた」「もう動けない」と感じたり。
少しでも気温が低いと「寒い」「つらい」と感じるのは、「自分自身」を拡大して理解しすぎなのだ。
逆に疲れを感じにくい人は、たとえば足が痛くても「これは、単に足に痛みを感じているだけだ」と、それを自分自身ではなく、肉体的な感覚として処理する。
寒さに強い人は、気温が低くても、それも単に肉体が感じている現象に過ぎないと受け止める。
こうして、疲れを感じやすい人と、感じにくい人。
心理的に打たれ強い人、打たれ弱い人の差が生じる。
そこで、瞑想をしてみよう。
ただ足を組んで坐っているだけで、様々なネガティブな思考が湧き上がってくるだろう。
それを、出来る限り「肉体的現象にすぎない」という風に処理してみる。
体の外側に追い出してみる。
たとえば、
「明日は仕事だ、大変だな」
「もう何分瞑想をしただろうか? いつ終われば良いだろう」
「もうすぐ確定申告だ、死ぬほど面倒くさい」
という思考が走るたびに、肉体に変化が起こるはずだ。
そのたびに「これは肉体的現象にすぎない」と考えて、心ではなく、体で感覚を感じるようにしてみる。
「心の働き」だと思っていたものが「肉体の変化」にすぎないという風に、感じ方を変えてゆく。
自分がどっぷりとはまっている価値観ほど、とてもこの「外部化」「切り離し」など無理だと思えるかもしれない。
完全に心理的現象であり、逃げるすべなどないと感じられるかもしれない。
だけど、何度もこの外部化、切り離しにトライする。
こうしていくと、だんだんと、自分はどこにもいないんじゃないかと思えてくるだろう。
すべての自分の苦しさは、肉体的現象に過ぎず、自分というのは限りなく薄い、存在して存在しないようなもの。
このような感覚にたどり着くと、心理的な苦しさというものはほとんど消えてしまう。
もしそれでも自分がいるとすれば、それは呼吸の中かもしれない。
Sunday, January 1, 2017
5分瞑想 | 瞑想が面倒になったら、いったん時間を縮めてみよう
最近、瞑想の基本時間は30分に設定していた。
だが人間、ハードルを上げすぎると、逆に腰が重くなるのが道理だ。
「30分集中しなきゃいけない」と思うと、ついつい後伸ばしにしてしまう。
そこで、いったん瞑想の時間をぐっと縮めて、5分にしてみた。
こうすると、瞑想するハードルがものすごく下がり、そして楽しくなった。
そして、時間は短くてもリフレッシュすることが出来ることが分かった。
確かにこれは本格的な瞑想ではないかもしれないけれど、いちばん大事なのは、まずやることだ。
30分の瞑想を0回やるよりも、5分の瞑想を1回やった方が良い。
「毎回ちゃんと、集中力の限界にチャレンジしなきゃいけない」とか、
「毎回ちゃんと、心を空っぽにしなければいけない」とか、あまり気負いせずに、単にリフレッシュを目的とした、ごく時間の短い瞑想もあって良いんじゃないかと思う。
あなたももし、瞑想が億劫に感じられるなら、本格的にやろうとしすぎて、設定時間を頑張りすぎていないか、いちどチェックしてみると良いだろう。
だが人間、ハードルを上げすぎると、逆に腰が重くなるのが道理だ。
「30分集中しなきゃいけない」と思うと、ついつい後伸ばしにしてしまう。
そこで、いったん瞑想の時間をぐっと縮めて、5分にしてみた。
こうすると、瞑想するハードルがものすごく下がり、そして楽しくなった。
そして、時間は短くてもリフレッシュすることが出来ることが分かった。
確かにこれは本格的な瞑想ではないかもしれないけれど、いちばん大事なのは、まずやることだ。
30分の瞑想を0回やるよりも、5分の瞑想を1回やった方が良い。
「毎回ちゃんと、集中力の限界にチャレンジしなきゃいけない」とか、
「毎回ちゃんと、心を空っぽにしなければいけない」とか、あまり気負いせずに、単にリフレッシュを目的とした、ごく時間の短い瞑想もあって良いんじゃないかと思う。
あなたももし、瞑想が億劫に感じられるなら、本格的にやろうとしすぎて、設定時間を頑張りすぎていないか、いちどチェックしてみると良いだろう。
幸福レベル = 追求する能力 x 味わう能力
幸福は「追求する能力」と「味わう能力」のかけ算によって決まる。
しかし僕たちは、この二つの中で後者の「味わう能力」が著しく低い。
そして「味わう能力」が存在することにさえ、そもそも気が付いていない。
同じ物事を経験するなら、ただ無条件に、幸福のレベルは自動的に決まるのだと思いこんでいる。
たとえば同じ値段の料理であれば、自分の味わい方なんか関係なく、まったく同じ味がすると考えている。
いくら人生の中でそれが反証されようとも、これを無邪気に信じ続けている。
たとえば同じ料理を二回食べて、前と同じように楽しめなかった時、僕らはそれを「飽き」と呼んだりする。
もしくは、シェフの腕が悪かったのだろうか、体調のせいだろうかと考えて、特に理由は分からないまま、忘れてしまう。
そして、今度はより感動を与えてくれるような、まったく新しい店の、まったく新しい料理を探したりする。
だけどそれでも、以前の感動を味わえるとは限らない。
なぜなら自分自身が味わう心構えがないからだ。
全く同じ料理でも味わい方によって美味しさがまるで変わるように、幸福も味わい方によって全くその中身が変わってしまう
客観的に見れば、いかに幸福そうな条件が揃っていても、本人の味わう能力が低ければ、中身を存分に享受することは出来ない。
実は、幸福を味わうこともひとつの能力であり、心がけや訓練によって育まれるものなのだ。
僕たちは幸福のために努力をする。
もっと賢くなれば、もっと知識をつければ、もっと良い部屋に住めば、もっと仕事がうまくいけば、もっと健康状態が良ければ、もっとモテれば、もっとお金があれば、もっと美味しいコーヒーが見つかれば、もっと良い行きつけのカフェが見つかれば、もっと好きなことをする時間があれば、きっと幸せになれるだろうと信じている。だからそのために具体的な行動を起こす。
だけどたいてい、計画通りには行かない。
「これさえあれば幸福になれる」と思ったものが手に入ったやいなや、すぐに感動は薄れ、自分にとって当たり前のものになってしまう。
それが人間の摂理なのだろうか。
いや、違う。これは「幸福を味わう能力」が低いこと。
新しいものが手に入った途端「味わう行為」をやめてしまうということが大きな理由だ。
幸福になるための準備にいくら時間をかけても、いくらよりよい人生を追求しても、それを味わう時間がなければ、いつまでも幸福にはなれない。
もちろん、より良い幸福のために努力することも重要だ。
結局は、仕事があるからこそ1杯のコーヒーを飲めるわけだし、良いオーディオ機器があればより音楽を楽しめる。
だが最高のコーヒー豆を買って、コーヒーメーカーを用意して、ネットでコーヒーについて調べ尽くしても、実際にコーヒーを飲まなければ、永遠に味わうことは出来ない。
幸福もそれと同じように、実際に味わうということが重要だ。
さて、幸福を味わうというのは一体、具体的にどうすれば良いのだろうか。
その答えは、単に「味わう」という行為をしてみることだ。
たとえばこれは、コーヒーを一杯飲む時の心構えと似ている。
一杯のコーヒーを空想にふけりながら、味もわからないような状態で飲み干してしまうことも出来るだろう。
だけど香りをかいで、口に含ませ、ゆっくりと味を楽しむことも出来る。
「よく味わう」という感覚は、僕らが誰しも経験したことのあるものだ。それを「幸福」や、多くの「体験」にも差し向けることが出来る。
また、同じことが「喜ばしいマインドフルネス」という表現で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」という本に紹介されている。時間があれば読んでみてほしい。
しかし僕たちは、この二つの中で後者の「味わう能力」が著しく低い。
そして「味わう能力」が存在することにさえ、そもそも気が付いていない。
同じ物事を経験するなら、ただ無条件に、幸福のレベルは自動的に決まるのだと思いこんでいる。
たとえば同じ値段の料理であれば、自分の味わい方なんか関係なく、まったく同じ味がすると考えている。
いくら人生の中でそれが反証されようとも、これを無邪気に信じ続けている。
たとえば同じ料理を二回食べて、前と同じように楽しめなかった時、僕らはそれを「飽き」と呼んだりする。
もしくは、シェフの腕が悪かったのだろうか、体調のせいだろうかと考えて、特に理由は分からないまま、忘れてしまう。
そして、今度はより感動を与えてくれるような、まったく新しい店の、まったく新しい料理を探したりする。
だけどそれでも、以前の感動を味わえるとは限らない。
なぜなら自分自身が味わう心構えがないからだ。
全く同じ料理でも味わい方によって美味しさがまるで変わるように、幸福も味わい方によって全くその中身が変わってしまう
客観的に見れば、いかに幸福そうな条件が揃っていても、本人の味わう能力が低ければ、中身を存分に享受することは出来ない。
実は、幸福を味わうこともひとつの能力であり、心がけや訓練によって育まれるものなのだ。
僕たちは幸福のために努力をする。
もっと賢くなれば、もっと知識をつければ、もっと良い部屋に住めば、もっと仕事がうまくいけば、もっと健康状態が良ければ、もっとモテれば、もっとお金があれば、もっと美味しいコーヒーが見つかれば、もっと良い行きつけのカフェが見つかれば、もっと好きなことをする時間があれば、きっと幸せになれるだろうと信じている。だからそのために具体的な行動を起こす。
だけどたいてい、計画通りには行かない。
「これさえあれば幸福になれる」と思ったものが手に入ったやいなや、すぐに感動は薄れ、自分にとって当たり前のものになってしまう。
それが人間の摂理なのだろうか。
いや、違う。これは「幸福を味わう能力」が低いこと。
新しいものが手に入った途端「味わう行為」をやめてしまうということが大きな理由だ。
幸福になるための準備にいくら時間をかけても、いくらよりよい人生を追求しても、それを味わう時間がなければ、いつまでも幸福にはなれない。
もちろん、より良い幸福のために努力することも重要だ。
結局は、仕事があるからこそ1杯のコーヒーを飲めるわけだし、良いオーディオ機器があればより音楽を楽しめる。
だが最高のコーヒー豆を買って、コーヒーメーカーを用意して、ネットでコーヒーについて調べ尽くしても、実際にコーヒーを飲まなければ、永遠に味わうことは出来ない。
幸福もそれと同じように、実際に味わうということが重要だ。
さて、幸福を味わうというのは一体、具体的にどうすれば良いのだろうか。
その答えは、単に「味わう」という行為をしてみることだ。
たとえばこれは、コーヒーを一杯飲む時の心構えと似ている。
一杯のコーヒーを空想にふけりながら、味もわからないような状態で飲み干してしまうことも出来るだろう。
だけど香りをかいで、口に含ませ、ゆっくりと味を楽しむことも出来る。
「よく味わう」という感覚は、僕らが誰しも経験したことのあるものだ。それを「幸福」や、多くの「体験」にも差し向けることが出来る。
また、同じことが「喜ばしいマインドフルネス」という表現で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」という本に紹介されている。時間があれば読んでみてほしい。
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