Monday, December 5, 2016

瞑想にはテクニックが必要だ

今日気付いたこと。

「呼吸に集中しよう」とするよりも、
「集中状態に入ろう」と心がけるほうが、ずっと集中しやすいということだ。
この二つの意図の、微妙な違いが分かるだろうか。

「集中しよう」ではなくて「集中状態に入ろう」だ。
前者はより意識が狭くて、後者はより広いと感じられる。
前者はひとつの対象に意識を集めるが、後者は自分自身の意識全体に働きかけようとする。
この二つは一見似ているようでいて、僕にとって、全く違うニュアンスの言葉となった。

僕は数ヶ月の瞑想を続けて、今までにも心地よい「深い集中状態」を何度か経験している。
その状態を覚えておき、ブックマークしておき、名前をつけて保存しておく。
そして、また必要な時に呼び出すという感じだ。

だから今日僕は「集中した結果」として「集中状態に入る」のではなくて、
「集中した状態」に「直接アクセス」できるようになった気がした。

言うなれば、今まで乗れなかった自転車に乗れるようになった感覚だ。
もう「こういう風に足を動かして」「こういう風にバランスを取って」と意識的に考える必要はなく、ハンドルを切って大きな努力なしに、道を走ることが出来るのだ。
つまり、意識のコントロール方法が一段レベルアップしつつある気がした。

一般的に瞑想では、求めないことが重要だと言われる。
求めるものがあるとすれば、それは「自然と現れる」ものだと教えられる。
瞑想とは、日常とは全く別の脳を使う分野。全くやり方の違う分野なのだと。

だが今日僕が思ったことは、瞑想もある部分、スポーツや武芸と同じ「技法」なのだということだ。
少なくとも、技法的な一面がないなんて、全く言えないはずだ。
そもそも「呼吸に集中する」というテクニックだって、技法の一種類じゃないか。

特に集中力を高め、意識の状態をコントロールするタイプの瞑想の場合。
瞑想はある部分、集中力を鍛える手段だと割り切ってしまっても良いと思う。
技法やコツが分かればどんどん使っていったら良いし、テクニックを使うことを厭わなくても良いと思う。

そしてテクニックを使ってたどり着いた「集中状態」の中で、さらに求めるものがあれば、それを探求してゆけば良いのだ。

たとえば人間関係で重要なのはテクニックではないけれど、全くテクニックがなければ人とは仲良くなれない。
たとえばスピーチで大事なのはテクニックではないけれど、全くテクニックを無視すれば本質は伝わらない。
それとまるで同じとは言えないが、瞑想にも技法は絶対に必要なのだ。

もし瞑想に技法がまったく必要ないならば、今後ずっと、瞑想が上手くなることもないだろう。
より劣った技法よりは、より優れた技法の方が良いに決まっている。
テクニックに溺れては全く意味がないが、テクニックをまったく無視しても瞑想は上達しない。

特に瞑想という分野では、ここに微妙なバランスが要求される。
求めるようであり、何も求めないこと。
集中するようであり、ただ存在すること。
ただ坐るようであり、ただ坐るだけではないこと。

瞑想は脳の高次元な分野を使う。
つまりどうしても「言語を超えてしまう部分」があるのだ。
というよりも、文章解いて書き起こせない、もしくは非常に書き起こしにくいところに瞑想の本質は存在する。

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