「呼吸への集中」と「ただ存在する」というのは、別の種類かもしれないと考えている。
お互いは確かに、隣接しあっている部分があると思う。
だが僕が瞑想を続けていると、この二つは基本的に別のもののように思えてきた。
瞑想中に「呼吸への集中」が深まっていくと「ただ存在する」状態へと飛び移りやすくなる。
それはたとえるならば、集中の梯子がだんだんと伸びていって、「ただ存在する」という別の土地にジャンプしやすくなるようなものだ。
呼吸への集中が深まるたび、その距離がだんだんと新しい土地にに近づいていって、最後にはピッタリとくっつくぐらいにまでなるといった感覚だ。
だけど実際に「飛び移るタイミング」がなければ、新しい土地には降り立てないのだ。
そういう意味で「集中する」と「ただ存在する」は隣接しあってるとも言えるし、別々の場所にあるとも言える。
こう考えると「呼吸への集中」は「ただ存在する」という状態にたどり着くため準備なのではないかと、そう僕は考えるようになった。
もちろん「呼吸への集中」は素晴らしいものなのだが、もっと高次元の働きを、瞑想に期待するようになったのだ。
今まで僕は「呼吸への集中」だけを続けていれば、最何か意識の変化があるのではないかと考えていた。
もちろん、自然に意識の変化が現れることもある。そういう意味では、この考えは半分当たっている。
だが「集中」から「ただ存在する」へは、自動的にせよ意図的にせよ、どこかで「スイッチング」がおこなわれるタイミングがあるのだ。
このスイッチングが自動的に行われることもある。
だけどそれならば逆に、瞑想において意図的に「ただ存在する」状態へと、意識をスイッチングさせようと企む事もできるだろう。
「瞑想はそもそも、そういう戦略や意図ををすべて捨てる行為なのではないか?」と考えると、一見このかんげは、矛盾しているように思えるかもしれない。
だがそもそも瞑想を始めるときは「集中しよう」とか「悟りに達しよう」とか、それなりの意図を持って始めたもののはずだ。
なので全ての「意図」が悪者であるわけではない。
僕はまだ、このことについて十分に表現できるだけの語彙を持たないが。
ある意図を持ち、ある意図を捨てる。このふたつを微妙なバランスで両立させるものが瞑想のコツであるような気がしている。
まだまだ瞑想に関しては、分からないことばかりだ。
# 参考
>TYPES OF MEDITATION – AN OVERVIEW OF 23 MEDITATION TECHNIQUES
http://liveanddare.com/types-of-meditation/
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