Monday, February 20, 2017

雑念は捨てるな!

瞑想で、雑念は捨てなくても良い。
(正確には「雑念を捨てない」やり方も存在する)

何をするか。
ただ座るだけだ。そして、心がおもむくままに任せておく。
本当に、なにも努力しなくて良い。

すると、何もしていないはずなのに、時間が経つと、いつの間にか心が落ち着いてゆくのが分かる。

たとえば仕事のことで頭がいっぱいなら、そのままで放置しておく。
仕事のことは頭の中をぐるぐると、20分も30分も回り続けるかもしれない。
だけど、そのままにする。
むしろ、雑念が回ることを歓迎する。
なぜならこれは「心を整理するために必要なプロセス」だからだ。

マインドフルネスの瞑想では「心の働きを観察すること」が重要視される。
だが、それさえしなくても良い。
なぜなら、観察には努力が必要だ。そして、努力にはエネルギーが必要だ。
だが、そもそもエネルギーが無い時にはどうすれば良いのだろう?
答えは、エネルギーを全く使わないやり方をすれば良い。

努力をまったくしない瞑想。
例えば「睡眠中には自然と記憶が整理される」と言われるように、この瞑想では、自然に心が整理されてゆく。
「雑念が回りきるまで回った時」に、心の平穏が訪れる感じだ。

マインドフルネスの本「サーチ・イン・サイドユアセルフ」では、この「ただ座るだけ」という手法は、瞑想の「一番簡単なやり方」として紹介されている。
だが「難易度の低さ」と「効果の低さ」は必ずしも比例しない。
むしろこれは、極めて役立つ手法だと僕は考えている。

心が落ち着くまでに時間はかかるけれど、とても持続性が高い。
ほとんど自動的に、いつの間にか良い気分になることが出来る。そして、集中力を取り戻すことが出来る。

なので特に集中力が落ちているときにはオススメだ。


たとえば運動でも「ごく軽いランニング」が、一番気分を良くしてくれる場合がある。
同じように瞑想でも、一番努力しないやり方が、一番効果的という場合があるのだ。


なので僕は、雑念を捨てないことが、とても気に入っている。

Saturday, February 18, 2017

「世界は良いものだ」という価値観

死角。


身近に存在するものほど、見えない。
たとえば僕らは空気に囲まれているが、空気を意識することはほとんどない。

これと同じように、僕らのあまりに身近な価値観は、見えない。
価値観の根底にあるものほど、死角にある。
だがその逆に、面積は巨大だったりする。


ところで今日、僕は

「世界は良いものだ」

ということに気付いた。


ここでいう「世界は良いものだ」というのは、
「安心できる場所だ」とか「味方だ」とかいうのと似た意味だ。


- 世界は悪いもの、敵である
- 世界は自分の外側にある
- 多くの敵の中に、自分が脅えながら存在する

- 世界は良いもの、味方である
- 世界と自分には境目がない
- 良い世界の一部分として、自分が存在する


世界に対してどちらのイメージを持つかによって、気分はまるで変わってくる。
世界に対しての認知。すなわち「世界観」は僕らの感情、行動に大きな影響を及ぼす。
この持続性は無限だ。(認知自体が変わらない限りは)
そして僕らは影響を受けていることにさえ気付かない。


僕は日々、瞑想をしながらも、自分の心の中に、いつも不安がくすぶっているのを感じていた。
だけれど、なかなか深い安心を感じることが難しかった。

だが、そもそも「なぜ不安を感じるのだろう」ということを問いかけてみたとき。
この心は「世界を敵のように感じている」「世界に対して脅えている」ということが分かった。

そして理解したのは「世界は敵だ」という図を描きながら、安心を感じることは難しいということだ。
たとえ安心を感じられたとしても、それはごく一部分的なものになる。
なぜなら「99の敵」の中で「1の自分」が安心しようとしている状態なのだから。

だがこの逆に「世界は良いものだ」「世界は安心できるものだ」と考えれば、99の良い世界の中に、1の良い自分が存在することになる。
つまり、安心の色を塗る面積が、大幅に違うのだ。


僕は自分が、世界を敵だと感じていることにすら、意識的には気付いていなかった。
これが、またひとつ「大きな面積を占める死角」を理解した。


だがまだひとつ、大きな問題がある。
「世界は良いものだ」と考えた時に行き当たる、論理的な矛盾だ。

たとえば本当に「世界は良いもの」なのだとすれば、なぜ世界に詐欺師がいるのだろうか?
「世界は良いもの」という価値観を持つならば、詐欺師に騙された時には、世界をどう理解すれば良いのだろう?
世の中の危険を避ける時に、この価値観は有用なのだろうか?

この矛盾を放置するのは、危険だ。
なぜならいつか、矛盾に気づいた時に、自分という読者が冷めてしまう。
特定の世界観を持つのは、フィクションのようなものだ。
だからこそ読者のために、矛盾の少ない物語を描く必要がある。

ただこれは前述のとおり、フィクションなので、事実かどうかはさておき、整合性さえ取れていれば良い。
「自分という読者」の支持さえ得られれば、それで良いのだ。


「世界は良いものだ」と考えても「世界は悪いものだ」と考えても、どちらにせよ、どちらかが事実ということはない。どちらもが事実だとも言える。
だが「世界は良いものだ」と考えたときの方が、僕の気分が10倍も良くなることだけは分かっている。
重要なのは事実ではなくて、世界をどう理解するかという手順だ。


それで僕は、
「詐欺師は【世界が良いものだ】ということに気付いていない」
「【世界は良いものだ】と気付いていない人だけが、悪さをたくらむ」
という結論に行き着いた。

これで整合性は完璧だ。
僕の頭の中ではつじつまが合った。
少なくとも、自分という読者を納得させられそうな気はする。



世界は良いものだ。
なぜなら、そう思うことが、僕にとってものすごく楽な生き方だと思うから。



Friday, February 17, 2017

「人より優れていたい」の罠

「人より優れていたい」という気持ちが、人にはある。
僕にもあなたにもある。
決してないとは言わせない。

たとえば、こんな話がある。
とある海外で、年収3000万円の人が、年収3010万円の同僚を羨んだそうだ。
これは分りやすいタイプの「人より優れていたい」だ。

たとえばブランド志向の人が、高級品を求めるのは何故なんだろう。
これも分りやすい「人より優れていたい」だ。
逆に、ブランド志向を馬鹿にする人もいる。
だけど「ブランドに踊らされていない俺の方が賢い」と考えているとしたら、これも「人より優れていたい」だ。

たとえば、最近オープンしたオシャレなカフェにいち早く並ぶ人にも「人より優れていたい」が紛れているかもしれない。

たとえば、瞑想を何年も続けている人さえ、
「他の人よりうまく瞑想したい」
「瞑想している自分は、他人より優れている」
という風に、無意識に考えているかもしれない。


「人より優れていたい」と。
あともうひとつ。
「人より劣っていたくない」。

この二つは強かれ弱かれ、意識しているにせよ意識していないにせよ、僕たちが共通して持っている気持ちだ。


この気持は果たして、必要なんだろうか?
言葉を変えれば、僕たちの幸福に、寄与しているんだろうか?


なぜなら、あなたが人より優れるということは、他の誰かがあなたより劣るということだ
そして他の誰かが優れるということは、あなたが人より劣るということだ。
世界の半分の人間が優れていれば、残り半分は劣っていることになる。

これは絶対に両方であり、片方だけが起こることはない。
「すべての人が、人より優れている」というのは、論理的にあり得ない。


「人より優れようとすること」を支持する人は、比較が幸福に「寄与している」と考える。
よく語られる言葉は、

「人より優れようと思うから、人間は成長する」
「人より優れようと思わなければ、どうやって技能を伸ばすのか」

というものだ。

人間の幸福は、人より優れようとすることによって生まれる。
成長のための努力こそが尊い、という考え方だ。

だけど、この考え方にはひとつの隠れた前提条件がある。
それは「人より優れようと思ったほうが、人より優れられる」という仮定だ。
だけど、本当にそうなのだろうか?
「人より優れたいという気持ち」と「人より優れている度合い」の相関性について、統計は取られているのだろうか?(もしかしたら、取られているかもしれないけれど)

逆に「人より優れたい」という気持ちが邪魔になって、結果的に人より優れられない、というケースも考えられないだろうか。

そしてもし、この二つに相関があったとしても「人より優れたい」と思い、実際に「人より優れる」ことは、僕らの幸福度を上げているのだろうか。
「人より優れること」は当たり前のように「良いもの」だと思われているけれど、本当にそうなのだろうか。


別に僕は「人と比べるのをやめた方が」「人間は成長できる」と主張したいわけじゃない。
「比較をやめた方が良い」とも思わないし、そもそも「人間の成長の価値」さえ、本当には信じていない。


だけど「人より優れたい」という気持ちが、僕らが思っているよりも、ずっと有害に働いているんじゃないだろうか、幸福に寄与せず、むしろマイナスに働いている可能性が高いんじゃないかとは考えている。


別に、人より優れなくても良い。
僕は自分の幸福のために、寄与する行動を取りたい。

たとえば「人より優れた趣味」なんか、持たなくて良い。
人より優れたいがために、本当は気の進まないことに、時間を費やすことはない。
たとえそれが世間で、どれだけ良いものだと言われていようと。


こんなことを考えたのは、今日、瞑想をしながら音楽を聴いていて(音楽を聴くために瞑想をしていて)、すごくそれが楽しかったので、これを趣味のひとつにしようと思った。

ただ、それ自体はすごく楽しいことのはずなのに、途中で雑念が湧いてきた。
「音楽を聴くなんて、簡単だ」「あまりに受動的な趣味だ」「音楽を演奏するほうが、ずっと尊い」という風に。

たとえば「やり抜く力 GRIT(グリット)」に書かれているように、なるべく自分の能力を引き出す人生の方が良いのではないだろうか?
音楽を聴くばかりで、少しも自分の能力が磨かれない趣味は、ぬるま湯に浸っているようなものなのではないだろうか?
と考えて、音楽を聴くことを、そのままには楽しめなくなってきた。


だけど、一番重要なのは「なぜ自分が、そう思うのか?」ということだ。
そして「何故こんな気持ちを持つのか?」と考えた結果、この意識のベースには「人より優れた趣味を持ちたい」という前提があることに気付いたのだ。

「自分の能力を磨くタイプの趣味」=「優れたもの」
「能動的な趣味を持つ自分」=「人より優れた趣味を持った自分」

この図式が反応しているのだなと気付いた。

なので僕は、それと同時に、人より優れた趣味を持たなくても良いことにも気付いた。
「人より優れたい」という気持ちを無視すれば、別に、能動的な趣味なんか持たなくても良い。
たとえそれがどんなに尊いものであろうとも、良いものであろうとも、少なくとも、今の僕には気が進まない。



こうやって趣味ひとつを選ぶのにも「人より優れたい」は、判断に影響を与えてくる。
自分自身が影響されているという事実に気付けば、より右と左は決めやすくなるだろう。

Sunday, February 12, 2017

幸福のパラドックス | 北風と太陽の話

この世界の多くは、パラドックスで出来ている。

たとえば「幸福」と「幸福を夢想」することは、まったくの別物だ。
だが僕たちの脳はけっこう馬鹿だから、よくこれを取り違える。


たとえば「年収が高いほど幸福になりやすい」というのが統計的に事実だとしても、
「年収が高ければ幸福になれるのに」と夢想し続けることは、幸福ではない。

たとえば「瞑想が幸福感をもたらしやすい」というのが事実だとしても、
「もっと瞑想する時間があれば、幸福になれるのに」と夢想し続けることは、幸福ではない。

たとえば休日に飲む一杯のコーヒーは、もちろん美味い方が良いにしても、
「もっと美味しいコーヒーが飲めるはずなのに」と思いながら飲むコーヒーは、不味く感じる。



僕たちは「良いものは、良い」と考えがちだ。
だけどもし不幸を感じているならば、それはまったく世界の仕組みを分かっていない証拠だ。

僕たちはよく「良いもの」に対する「ふるまい」も、全て、良いものだと考えてしまう。
だが「良いもの」に対しておこなわれるふるまいは、反対に「悪いもの」だという可能性がある。

僕らはこう考える。
「良いものを追い求めているのだから、良いふるまいをしているはずだ」と。
「良いものを追い求めているのだから、それに近づいているはずだ」と。

だけど実は「追い求める」をことで、逆に「求めるもの」から遠ざかっているかもしれない。
むしろ、そのパターンのほうが多いんじゃないだろうか。


たとえば「人に優しくすること」が良いことだとしても、
「人に優しくするのを強制すること」は、良いことじゃないかもしれない。

たとえば「新年の抱負を持つこと」が良いことだとしても、
誰かにそれを強制されたら、まったくやる気は起こらないかもしれない。

「経営者目線で仕事を考える」のが優れた働き方だとしても、
社長が社員にそれを言うのは、逆にモチベーションを下げるかもしれない。

たとえばダイエットをした方が健康に良いとしても、
ダイエットのことばかりを1日中考えていたら、逆に食欲が湧いて太ってしまうかもしれない。


この世界は多くのパラドックスで出来ており、求めるものを手に入れるのは、いちどそれを忘れる方が近道だったりする。

特に幸福なんていう奴は、特別にトリッキーな動きをする。
すごく近くにあるはずなのに、とても繊細で恥ずかしがりだ。
僕たちが欲しがれば欲しがるほど、幸福は逃げてゆくように出来ているのだ。


幸福に出会うためには、ちょっとだけ遠回りをする必要がある。

「幸福を夢想し続ける」というのは、逆努力だ。
だから不幸になる努力をやめるだけで、少しだけ幸福に近づくことが出来る。

旅人の服を脱がそうとして、北風を吹き付け続けるのはやめよう。
その逆に、太陽のように幸福を照らしてあげよう。


とても抽象的な話だ。
だけど、きっと伝わると信じている。



Saturday, February 11, 2017

不安は存在しない | 感情のラベリングが有害になる場合

「不安」は存在しない。
僕たちが「存在していると思い込んでいる」だけだ。


僕たちは自分たちの感情にラベリングをする。

ある感情は「不安」と呼ぶ。
ある感情は「安心」と呼ぶ。
ある感情は「失望」と呼ぶ。
ある感情は「期待」と呼ぶ。


ラベリングは、非常に強力なツールだ。うまく使えば武器になる。
自分の感情に対するラベリングがうまければうまいほど、感情を理解し、それを賢く扱えるようになる。

自分の感情を説明できないよりは、説明できた方がずっと良い。
うまく生きることが出来るようになる。
「今まで説明がつかなかった、モヤモヤとした感じ」に、はっきりとした名前が与えられた瞬間は、まさに天啓だ。(ユリイカ!)
過去よりもずっと世界がクリアになり、頭は冴え、魂さえ救われたような気持ちになるだろう。


だが同時に、別のレイヤーにおいて考えると、感情というものは、世界にそもそも存在しない。
「感情」という名前での、様々なバリエーションでの、言葉でのラベリングが存在するだけだ。
これは人間の説明だ。

たとえばひとつの状態を「不安」と呼ぶ。
これは状態に対する「説明」であり「実体」ではない。
あくまでも言葉による働きであり、認知的な理解の方法のひとつだ。

たとえば動物の世界では、特定の状態を「不安」だと表現したりはしないし、そう理解したりもしない。
自分たちの特定の状態に対してラベリングをするのは、人間特有の行為だ。


そしてこの「感情のラベリング」は、どんなシチュエーションでも常に、幸福に働くとは限らない。
ラベリングするからこそ、自分の状態をフラットに観察できず、過剰にマイナスの状態に陥ってしまうという場合もある。
これは、非常に不幸なことだ。


たとえば。

コーヒーを飲みすぎた昼下がり、カフェインの効果で胸が締め付けられている人がいる。
これに「不安」という言葉で理解すれば、彼の脳はそれを「不安」だと理解する。
そうすると何故だか分からないが彼の「つらさ」は増大する。
ひとつの状態を「不安」だと理解することによって、状態はより深刻になるのだ。
いわば、自分で自分を洗脳しているような状態だ。


だけど彼は、これを「単なる、肉体の反応だ」と理解することも出来る。
「そういえば、今日はコーヒーを飲みすぎているな」「カフェインの効果で、胸が締め付けられているだけだ」と理解することも出来る。
そうすると何故だか「つらさ」は減少する可能性が高い。


そしてここで重要なポイントは、ひとつの状態を「心理的なもの」としてラベリングするか「肉体的なもの」として理解するかは、自由なのだということだ
たとえコーヒーを飲みすぎていなくたって、いつだって自由だ。


今感じ取っているのは、心理的現象なのだろうか、それとも肉体的現象なのだろうか?
だけど「どちらなんだろう」という疑問には、あまり意味がない。
なぜならこの二つはお互い、同じもの、表裏一体のものだ。

僕たちは、常に肉体的な現象を通してしか、心理的現象も感じ取ることが出来ない。
そして実は、肉体現象を理解する手法として、心理上のラベリングをおこなっているに過ぎない。

肉体現象なしの「不安」や「期待」も存在しない。
仮にもし存在したとしても、感知することさえ出来ないだろう。
(胸が締め付けられない「不安」や、胸踊らない「期待」を想像できるだろうか?)


では、どんな時にラベリングをおこない、どんな時にラベリングをおこなわない方が良いのか。

ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)が楽になるなら、そうするのが良いだろう。
ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)がつらくなるならば、やめた方が良いだろう。
「いま、効果的に働く方」を選んであげるのがいい。





即断即決の罠 | 「スピーディーに決めることが出来ない」を許す

「たくさんの時間を考えて良い」
「ひとつの答えを出すために、たっぷりと時間をかけても良い」

このことに気付いた時、僕は救われた気持ちになった。

僕のひとつの悩みは「決めるのが人よりも遅い」ということだった。
実際に測ってみたわけではないが(思考は外から見えない!)、自分の視点から見て、そう感じられることが多いことだった。

たとえば、居酒屋のメニューであれば一瞬で決められる。
たとえば、コンビニで買うチロルチョコの種類だって、閃光よりも速く決められる。
だけど、仕事上の重要な事柄だったり、「休日の過ごし方をどうするか」という一見些細な問題であっても、ひとつのことを決めるのに、かなり考えてしまうことが多い。
他の人はいとも簡単に、重要な事柄を、スイスイと決めているように見える。
だから「すぐに決められないこと」は、僕にとってひとつのコンプレックスだった。

「スピーディーに決められないのは、自分の何かが悪い」
「自分は人より、かなり頭が悪いのではないだろうか」
「どこかにもっと、素早く決められる方法があるはずだ」
と考えて、これを改善する方法を探していた。
だが、こういったものは思い込みだと決めて、いったん捨ててみることにした。

そのかわりに「重要な事柄は、時間が許す限り、ゆっくり考えること」を許容することにした。
「答えが出ていないということは、もう少し考える必要があるということだ」と思うことにした。
そして「かなりたくさん考えても、結果として答えが出ていない結果」を許すことにした。贅沢にも。
こうすると不思議と、ゆっくりと考えた結果として、適切な答えが出てくることが多くなってきた気がする。


「いつまで考えても答えが出ないように思える」ということが、すなわち「これが重要な事柄だというサインなのだ」と僕は理解した。
時には、本当の堂々巡りだってある。
問題設定自体が間違っていて、いつまで考えても答えが全く出ないことだってある。
だがそれも、考え続けることで、問題設定の誤りを理解するチャンスがある。

こうして僕は「出来る限り早く決断する」のではなくて「適切な答えが出るまで考える」という方法を取ることが多くなった。

ゆっくりと考えることには、世間で思われているよりもずっと価値がある。
ものすごいスピードで重要なことを決めて、ものすごいスピードで間違うよりは、なるべく納得のゆくまで考えて、できるだけ適切な結論を出す方が良い。


僕は全ての人が、全ての事柄に対して、全てのシチュエーションで、全ての決断を「ゆっくりおこなった方が良い」とは、微塵も思わない。
「ゆっくり決めること」自体が良いことだとも、特別価値があることだとも思わない。

ただ、僕という個人にとって、ある分野の事柄に対して、特定のシチュエーションにおいて「ゆっくり決める」ことは、非常に有効に働きやすい、ということは知っている。


たとえば荒唐無稽な話だが、仮に「世界に向けて、核の発射ボタンを押すかどうか」を悩んでいる、未来の大統領がいたとして、僕たちはきっと「スピーディーな決断」なんかせずに「恐ろしいほど熟考してほしい」と望むことだろう。

そう、重要な事柄だからこそ、決断に時間がかかるというのは、当たり前の話なのだ。
逆に、決断に時間がかかるということはすなわち、それが重要な事柄である可能性が高い。
そして、重要な事柄であるならば、熟考する価値があるし、じっくりと考えた方が良い。


こうして僕は「即断即決の罠」から逃れようとしている。

Friday, February 10, 2017

「満足すれば進歩はない」の嘘

僕たちは、満足しないように教育されている。
「満足すれば、進歩はない」

満足するのが良いのか?
それとも進歩するのが良いのか?
あなたもこの究極の二択について、人生で一度たりとも、考えなかったわけではないだろう。


たぶん、進歩するほうが正しいんだろう。
なぜなら、人類の歴史は進歩の歴史であった。
進歩があったからこそ現在の我々があり、文明がある。
進歩は絶対的に正しい。この価値に逆らうことは誰にも出来ない。

そして結局、僕らの多くは満足することを捨てて、進歩することを選ぶ。
自分の幸福よりも、人の幸福よりも、進歩のほうがずっと重要だ。
だから、人生において、いつまでも満足する日は来ない。

ある者は、進歩を捨てて、満足する道を選んだ。
そして、進歩することをまったくやめてしまった。
だけど彼個人の幸福も、進歩を続ける人類の文明を土台としているかもしれない。


けれど、そもそも、こんな二択は馬鹿らしいと思わないだろうか。
なぜ満足と進歩は二者択一で、対極に位置していると考えるのだろう。
あまりにも硬直した質問、単純すぎる問いかけだと思わないだろうか。

こうも考えてみる。
「果たして人間は、満足しながら、進歩できるのだろうか」
だが、答えの出ない質問は、そもそも質問が悪いことが多い。

この質問は、どこが悪いのか。
もうひとつは、状態とふるまいを並列に考えているところだ。

「満足」は状態であり「進歩」はふるまいだ。
だが「状態」と「ふるまい」は別のものだ。
お互いはお互いに影響を与えるが、べったりと依存しあっているわけではない。

たとえばひとりの人が、人生に満足しているとしよう。
d進歩することが個人、そして周囲の幸福に寄与すると思うならば、そうするかもしれない。
たとえ不満だらけでも、必ずしも進歩しようと思うとは限らない。満足できていないからこそ、進歩する気力も起こらないかもしれない。


もうひとつは「満足」の定義が曖昧なことだ。
一体なにをもってして「満足」と言えるのだろう。
それは、どのレイヤーでの「満足」なのだろうか。

たとえば、日々の食事を美味しいと感じ、仕事でも幸福を感じて、人間関係も良好であれば、これは心理的に満たされている状態だ。
つまり「満足している状態」だと言える。
幸福度の高い状態を「満足している」と表現することが出来る。

だがたとえば、仕事上で課題を持ち、(仮に技術職であれば)より技術的に向上する余地があると考えること。
健康面で課題を持ち、より良い状態を得ようとするならば、これは「満足していない状態」だとも言える。
課題があるということを「満足していない」と表現することも出来る。


だが、日々の幸福度が高い状態にあるということと、今後の幸福のために寄与しようとすることは、まったく矛盾しないはずだ。


そしてもうひとつ重要なことは、別に僕たちは、進歩したくなければ、しなくても良いということだ。
なぜなら「進歩しなければ幸福でない」という考え自体が、大きく有害だからだ。(有害に働く場合が非常に多い)

そして逆に、進歩したければ、進歩するためにふるまえば良いということ。
進歩することが個人の幸福に寄与しそうならば、そうすれば良いし、そうでないならば、そうしなければ良い。
たとえばスポーツ選手やピアニストであれば、進歩することがより幸福につながるかもしれないし、たとえば闘病中の人であれば、今に満足することが何よりも大事かもしれない。
何がもっとも有効に機能するかということは、個々人のコンテキストによってまるで違う。

進歩には良い悪いもない。
それが「自分に有効に働くかどうか」をベースに考えてみよう。

善悪の判断の上手な捨て方 | 借金1000万円の話

「良い」と「悪い」の判断を捨ててしまうこと。
こうすれば、ものすごく楽になる。

一口に言うのは簡単だ。
だけどこれは、借金の返済みたいなもんだ。
たとえば借金が1000万円あれば、これを一気に返済するのは大変だろう。
心で「借金のない生活を送ろう」と決意したからと言って、すぐに返済できるわけじゃない。

あまりに借金が大きいと、減らせるのはいちどに少しずつだ。
だけど10000円ずつ、1000円ずつ、100円ずつ返してゆけば、少しずつ借金は軽くなってく。
時には大きな収入があって、ごそっと借金が減る時もあるだろう。
運が良ければ、完済する日さえ来るかもしれない。
(ひとつ言うと、借金があることに悩むこと自体が、借金の一形態なので、気長にやろう)

だけどまずは、僕たちが借金まみれであることを理解しよう。
僕たちには多額の借金がある。事実を認めることが重要だ。
(もしそうでなければ、どうしてこんなに悩んでいるのだろうか?)


「良い」と「悪い」は、僕たちの文化の根源にある。
僕たちは「良い」と「悪い」という、評価の奴隷だ。
善悪の判断は、僕たちの思考習慣に染み付いている。
僕たちは、いかに自分たちが善悪の判断をしているかにさえ、気付いていない。
だから、このロジックについてもまるで理解していない。
なぜならそもそも、1日に1万回以上におこなわれるという思考にすら、気付いていないのだから。

たとえば子どもは善悪の判断がつかない。
当たり前だ。なぜなら「善悪の判断」は、大人が作り出すものだからだ。
「善悪の判断」が思考の根底に染み付くことを、僕たちは「大人になる」と呼ぶ。
そして「賢くなること」とは、より多くのルールを覚え、より多くの判断ができるようになることだ。
そして人はだんだんと、社会に生きることがうまくなり、そして同時に不幸になってゆく。


だけど僕は「善悪の判断」が、良いものだとも、悪いものだとも思わない。
もしかしたら良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。
もしかしたら良いものでも、悪いものでもないかもしれない。

「善悪の判断が、良いものか、悪いものか」というのは、いわば「メタ判断」だといえる。
「善悪の判断は、良いものだ」と考えれば、自分を自分で肯定することになる。
だが逆に「善悪の判断は、悪いものだ」と考えれば、その時点やっぱり「善悪の判断」自体に対して「善悪の判断」をしているので、自分を自分で否定しながら、肯定していることにもなる。
つまり、どちらに転んでも「善悪の判断」を肯定していることになるのだ。


善悪の判断をやめるというのは、今までとはまったく違うレールに乗り換えるようなものだ。
あまりにもレールの形も、列車の形も違うので、
レールを乗り換えたつもりが、まったくうまく乗り換えられていないということも起きる。


「よし、今から、善悪の判断をやめた生き方をしよう」
「善悪の判断をやめた生き方は、清々しい。すごく”良いもの”だ」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間の彼らはまだ善悪の判断を続けている」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、でもこうやって他人を評価する事自体が”良くない”ことだ」
「俺はうまく善悪の判断をやめられていない。やっぱり”うまくいかない”」

このように「善悪の判断」は、メタ的に思考を操作する。
逆に、善悪の判断をやめた考え方というのは、たとえば、次のようなものだ。

「善悪の判断をやめた方が、楽になる」
「善悪の判断をやめた方が、清々しいし、幸福な感じがする」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間でまだ善悪の判断を続けている」
「だけど、それ自体は良いとも悪いことでもない」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、こうやって他人を評価すること自体が、善悪を判断することだな」
「まあでも、他人を評価すること自体が、良いことだとも、悪いことだとも言えないな」
「俺も人間だから、善悪の判断をすることだってあるさ」

こうやって「メタ的」に鎖をほどいてゆくのが、善悪の判断から遠ざかるということだ。
善悪の判断をやめているから「自分が善悪の判断をしたこと」さえも「良い」とも「悪い」とも考えないのだ。





Wednesday, February 8, 2017

シャワーが「温かくて心地良い」と「温かくて素晴らしい」の違い

朝シャワーを浴びる時、温かさを感じる。

そのとき、これを2パターンの言葉で考えることが出来る。

A.「温かくて、心地良い」
B.「温かくて、素晴らしい」

この二つは似ているようで、実はまったく違う。

ふとつ。
「心地良い」のは、事実の世界の言葉だ。
だから、反証が出来ない。
体が「心地良い」と感じたことを、自分でも否定はできない。

もうひとつ。
「素晴らしい」というのは、評価の世界の言葉だ。
この評価には、反証が出来る。
自分の心の中で「いや、素晴らしくない」と否定することが出来る。

「シャワーが温かい」そして「心地良い」からといって、同時に「素晴らしい」とは限らない。
「心地良い」のは事実。
「素晴らしい」のは評価だ。


ある日、僕はシャワーを浴びて「温かくて、素晴らしい」と考える。
僕の頭は次の瞬間から「素晴らしい」というその言葉を軸に回り始める。
「素晴らしい」という言葉を軸にして、次の瞬間からは「これは、本当に素晴らしいのだろうか?」という疑問を持ち始める。
そして反証を始める。まったく自動的に。


これを馬鹿らしいと思うだろうか?
だが実際は、僕たちの言葉はチェーンのように、ひとつの言葉がひとつの言葉を軸に、次々と連鎖してゆくものだ。
僕たちが自分の妄想に気付いていないだけで、この連鎖は、シャワーをあびている間にも、朝食をとっている間にも、無限に起こり続けている。


たとえば、シャワーが温かくて、素晴らしい。
シャワーが温かくて、僕はいま、素晴らしさを感じている。
シャワーは僕に、素晴らしい気持ちをもたらしてくれる。
だからシャワーは良いものだ。素晴らしい気持ちになりたかったら、シャワーをあびることにしよう

だけどこれは本当に、素晴らしい時間なのだろうか?
最近体がなまってきているし、自分の体を見るのが嫌だ。
そういえば、確定申告がもうすぐそこに迫っている。
せっかく素晴らしい気持ちになったのに、一瞬のうちに終わってしまった。
もし本当に「シャワーが素晴らしいもの」ならば、シャワーを浴びながら、どうしてこんなに苦い気持ちいなるなのだろう?
シャワーを浴びることは、まったく素晴らしいことではないのかもしれない。
せっかくひとつ答えを見つけたのに、一瞬で失ってしまった。

こうして「シャワーの温かさ」の評価は地に落ちる。
どうしてか。それは僕がいちばん最初に「シャワーの温かさ」を評価し始めたからだ。
言葉によって、脳は自動的に「事実ベースでの思考」ではなく「評価ベースでの思考」を始めた。
シャワーを浴びて最初に素晴らしかったのは「感覚」なのにも関わらず、いつの間にか「評価」がそれにすり替わった。
そしてその評価が大きくなり、今度は自分を苦しめる。


評価や理解というものは、このように、あまりにもうつろいやすい。
僕たちの思わぬ方向にふくれてゆく。


「心地良い」と「素晴らしい」が最初に生まれた時は、その違いはわずかだった。
だけど彼ら兄弟(特に「素晴らしい」の方)は独り歩きをはじめ、成長し、まったく別のものに成長する。
「評価」はブクブクと肥り、よく僕らに攻撃を始める。このプロセスはよく、ものの数秒の間に起こる。

そして僕たちの脳は、たやすく「事実」と「評価」を混同する。
赤ん坊の頃にはよく似ていても、成長した姿はまるで違う。


「素晴らしい」というのは評価であり、扱いが非常に難しい。
「素晴らしい」という言葉に限らず、なるべく「評価ベースの言葉」ではなく「事実ベースの言葉」を使った方が、自分を苦しめることが少なくて済む。


僕たちの妄想は、たやすく評価ベースの言葉に引きずられる。