「良い」と「悪い」の判断を捨ててしまうこと。
こうすれば、ものすごく楽になる。
一口に言うのは簡単だ。
だけどこれは、借金の返済みたいなもんだ。
たとえば借金が1000万円あれば、これを一気に返済するのは大変だろう。
心で「借金のない生活を送ろう」と決意したからと言って、すぐに返済できるわけじゃない。
あまりに借金が大きいと、減らせるのはいちどに少しずつだ。
だけど10000円ずつ、1000円ずつ、100円ずつ返してゆけば、少しずつ借金は軽くなってく。
時には大きな収入があって、ごそっと借金が減る時もあるだろう。
運が良ければ、完済する日さえ来るかもしれない。
(ひとつ言うと、借金があることに悩むこと自体が、借金の一形態なので、気長にやろう)
だけどまずは、僕たちが借金まみれであることを理解しよう。
僕たちには多額の借金がある。事実を認めることが重要だ。
(もしそうでなければ、どうしてこんなに悩んでいるのだろうか?)
「良い」と「悪い」は、僕たちの文化の根源にある。
僕たちは「良い」と「悪い」という、評価の奴隷だ。
善悪の判断は、僕たちの思考習慣に染み付いている。
僕たちは、いかに自分たちが善悪の判断をしているかにさえ、気付いていない。
だから、このロジックについてもまるで理解していない。
なぜならそもそも、1日に1万回以上におこなわれるという思考にすら、気付いていないのだから。
たとえば子どもは善悪の判断がつかない。
当たり前だ。なぜなら「善悪の判断」は、大人が作り出すものだからだ。
「善悪の判断」が思考の根底に染み付くことを、僕たちは「大人になる」と呼ぶ。
そして「賢くなること」とは、より多くのルールを覚え、より多くの判断ができるようになることだ。
そして人はだんだんと、社会に生きることがうまくなり、そして同時に不幸になってゆく。
だけど僕は「善悪の判断」が、良いものだとも、悪いものだとも思わない。
もしかしたら良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。
もしかしたら良いものでも、悪いものでもないかもしれない。
「善悪の判断が、良いものか、悪いものか」というのは、いわば「メタ判断」だといえる。
「善悪の判断は、良いものだ」と考えれば、自分を自分で肯定することになる。
だが逆に「善悪の判断は、悪いものだ」と考えれば、その時点やっぱり「善悪の判断」自体に対して「善悪の判断」をしているので、自分を自分で否定しながら、肯定していることにもなる。
つまり、どちらに転んでも「善悪の判断」を肯定していることになるのだ。
善悪の判断をやめるというのは、今までとはまったく違うレールに乗り換えるようなものだ。
あまりにもレールの形も、列車の形も違うので、
レールを乗り換えたつもりが、まったくうまく乗り換えられていないということも起きる。
「よし、今から、善悪の判断をやめた生き方をしよう」
「善悪の判断をやめた生き方は、清々しい。すごく”良いもの”だ」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間の彼らはまだ善悪の判断を続けている」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、でもこうやって他人を評価する事自体が”良くない”ことだ」
「俺はうまく善悪の判断をやめられていない。やっぱり”うまくいかない”」
このように「善悪の判断」は、メタ的に思考を操作する。
逆に、善悪の判断をやめた考え方というのは、たとえば、次のようなものだ。
「善悪の判断をやめた方が、楽になる」
「善悪の判断をやめた方が、清々しいし、幸福な感じがする」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間でまだ善悪の判断を続けている」
「だけど、それ自体は良いとも悪いことでもない」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、こうやって他人を評価すること自体が、善悪を判断することだな」
「まあでも、他人を評価すること自体が、良いことだとも、悪いことだとも言えないな」
「俺も人間だから、善悪の判断をすることだってあるさ」
こうやって「メタ的」に鎖をほどいてゆくのが、善悪の判断から遠ざかるということだ。
善悪の判断をやめているから「自分が善悪の判断をしたこと」さえも「良い」とも「悪い」とも考えないのだ。