Tuesday, December 6, 2016

瞑想は心を「無」ではなく「からっぽ」にする

瞑想は心を無にする修行だと、一般的に考えられている。
瞑想を長く実践する人の中にも、これを誤解だと言う人もいうし、逆にそのとおりだと言う人もいる。

これは「無」の定義がそもそも違うのだ。

ただ坐る。
ただ存在する。
からっぽ。
何もしない。

無になるのではなくて、からっぽになる。空(くう)になる。
瞑想の究極の目的は、これだと思う。(もちろん人にもよるだろうが)

そして実は「無」と「からっぽ」には微妙なニュアンスの違いがある。

「無」はそもそも何も存在しない状態。
しかし「からっぽ」というのは「容器」はあるけれど「中身」が存在しない状態。

この二つは似ているようでけっこう違う。
だから人によって「からっぽ」のことを「無」と呼んだりするのだ。

無から有は生まれない。つまり無とは死のことだ。(本当に死が存在するかどうかはさておき)
いちど無になってしまえば、そこから戻ってくることは決して出来ない。
だが自分が容器であれば中身を注いだり、逆に中身を減らしたり出来る。
容器の中身が空になったとき、そいつが「からっぽ」だ。


No comments:

Post a Comment