Sunday, November 27, 2016

「観察の瞑想」の本質は誰も言葉で表現できない

今日は珍しく、観察系の瞑想を30分やってみた。
そこで思ったことは、集中系の瞑想と、観察系の瞑想では、求められる心の態度がかなり違うんじゃないかということだ。

もちろん集中と観察は、いずれは「同じ道」につながっているかもしれない。
だけど「より集中に適した心の状態」「より瞑想に適した心の状態」というものがあると思う。

自分は集中する瞑想の方をより多くやっているので、いざ自分の心を観察しようとするときも、鋭い集中力を発揮しようとしてしまっていた気がする。
「観察の対象はどこだ?」「どこにある?」と、ナイフとフォークを扱うみたいに、鋭く探し回っていた。

けれど心を観察するときは、それよりも「ぼやっ」とした方が良いのかもしれない。
心をナイフのようにするのではなく、丸いボウルのようにする。
自分自身を一歩引いて見てみる。前のめりのなるのではなく、一歩後ろに下がる。

こうやって

だが、まだ難しい部分がある。
心を思うままに自由にさせていると、どこからどこまでが「観察」している状態で、どこからどこまでが「考えに没頭している状態」か、分かりづらくなってしまうのだ。
この境目がわからないときは、おそらく「観察できていない状態」だとは思うのだけれど。
「観察できていない状態」のときは「観察できている状態」のことが分からないのだ。

観察の瞑想をうまくやるためには、ナイフのような集中力ではなくて、綱渡りをするようなようなバランス感覚。
薄皮一枚に意識をとどめるような、特定のタイプの集中力が必要になると思った。
もちろん、慣れてくれば大きな努力は必要とせずに「観察の層」に意識をピタッと合わせられるとは思うけれど。

心を思うままに遊ばせるだけでは、観察にならない。
かといって心を集中させすぎれば、それも観察にはならない。
なかなか難しいけれど、うまく自分を観察できているときは、脳の高次な部分が働いているような感覚を覚える。

世の中にはいろいろな瞑想の本が出ているけれど、どれも「観察とはそもそも何なのか」という本質について、核心を語っていないように思う。
それは瞑想における「観察」という働きが高度すぎ、抽象的すぎて、文面では表現しきれないものだからかもしれない。
言葉で表現できないこと、手法が確立されていないことに対して、僕は大きなもどかしさを感じる。

けれど、心の観察を30分終えた今、集中系の瞑想をした後とはまた一味違った、何とも言えない爽快さを味わっていることも事実だ。
もし悟りというものがあるならば、この観察を続けていった先に、それは見つけられるような気がした。





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