Wednesday, November 23, 2016

集中と観察は双子の兄弟だ

いろいろな瞑想をやってみた結果として、集中系の瞑想がすごく気に入っている。
由緒正しい瞑想の基本は観察系のものらしいが、今現在の僕としては、ひとめぐりして集中系の瞑想が一番フィットしている。

そして、集中と観察とはお互いに、完全に切り離されているわけではないと実感した。
瞑想に集中していく過程で絶対に観察は必要になるし、逆に意識を観察をするのにだって集中は必要だ。
集中と観察は、お互いはまったくの他人じゃない。双子の兄弟みたいなもんだ。

瞑想を始めて、自分の呼吸に集中する。
意識の別のレイヤーで「自分が呼吸に集中しているかどうか」を洞察する。
この「集中しているかどうかチェックする」という行為自体が、まさに観察そのものだと感じる。
理屈としても、自分の意識を観察できなければ、自分が本当に集中しているかどうかは分からないだろう。

これは僕の勝手な考えだが、集中系の瞑想をしているだけでも、ある程度、必然的に観察系の瞑想も同時にすることになる。
瞑想の入り口として「集中」から始めるか「観察」から始めるかの違いはあっても、これを続けていれば、まったく同じとは言わないまでも、ある程度似た境地に、自然にたどり着くような気がする。

そしてさらに言えば、集中系の瞑想は「慈悲の瞑想」にもたやすくつながる気がする。
30分の瞑想を終えると、とても自分の心が安定して、まるで慈悲の瞑想(祈りの瞑想)を終えた時と同じような気分になるのだ。

世の中にはいくつかの種類の瞑想があるが、お互いはお互いに影響し合っている。
ひとつの種類の瞑想をおこなえば、自然と他の瞑想にも好影響が出る。
「集中」「観察」「慈悲(祈り)」の瞑想のそれぞれが、お互いをやりやすくしてくれるのだ。
入り口が違うだけで、辿り着く場所は似ている。そんな感覚だ。

だから僕は、入り口にあまりこだわらないことにした。
その日その日で、基本的に一番自分が「やりたい瞑想」をやってみることにした。
たぶんそれが、一番自分にとって必要な瞑想だと感じるからだ。
(喉が渇いている時は水を飲めば良い。腹が減っている時は食事をとれば良い)

そして自分が一番やりやすいタイプの瞑想を続けていれば、いざというとき、他のタイプの瞑想がやりやすくなっているかもしれない。
とにかく僕はいま「集中系の瞑想」がとても気に入っている。そして、時間をかけてこの瞑想を続けている。




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