Wednesday, February 8, 2017

シャワーが「温かくて心地良い」と「温かくて素晴らしい」の違い

朝シャワーを浴びる時、温かさを感じる。

そのとき、これを2パターンの言葉で考えることが出来る。

A.「温かくて、心地良い」
B.「温かくて、素晴らしい」

この二つは似ているようで、実はまったく違う。

ふとつ。
「心地良い」のは、事実の世界の言葉だ。
だから、反証が出来ない。
体が「心地良い」と感じたことを、自分でも否定はできない。

もうひとつ。
「素晴らしい」というのは、評価の世界の言葉だ。
この評価には、反証が出来る。
自分の心の中で「いや、素晴らしくない」と否定することが出来る。

「シャワーが温かい」そして「心地良い」からといって、同時に「素晴らしい」とは限らない。
「心地良い」のは事実。
「素晴らしい」のは評価だ。


ある日、僕はシャワーを浴びて「温かくて、素晴らしい」と考える。
僕の頭は次の瞬間から「素晴らしい」というその言葉を軸に回り始める。
「素晴らしい」という言葉を軸にして、次の瞬間からは「これは、本当に素晴らしいのだろうか?」という疑問を持ち始める。
そして反証を始める。まったく自動的に。


これを馬鹿らしいと思うだろうか?
だが実際は、僕たちの言葉はチェーンのように、ひとつの言葉がひとつの言葉を軸に、次々と連鎖してゆくものだ。
僕たちが自分の妄想に気付いていないだけで、この連鎖は、シャワーをあびている間にも、朝食をとっている間にも、無限に起こり続けている。


たとえば、シャワーが温かくて、素晴らしい。
シャワーが温かくて、僕はいま、素晴らしさを感じている。
シャワーは僕に、素晴らしい気持ちをもたらしてくれる。
だからシャワーは良いものだ。素晴らしい気持ちになりたかったら、シャワーをあびることにしよう

だけどこれは本当に、素晴らしい時間なのだろうか?
最近体がなまってきているし、自分の体を見るのが嫌だ。
そういえば、確定申告がもうすぐそこに迫っている。
せっかく素晴らしい気持ちになったのに、一瞬のうちに終わってしまった。
もし本当に「シャワーが素晴らしいもの」ならば、シャワーを浴びながら、どうしてこんなに苦い気持ちいなるなのだろう?
シャワーを浴びることは、まったく素晴らしいことではないのかもしれない。
せっかくひとつ答えを見つけたのに、一瞬で失ってしまった。

こうして「シャワーの温かさ」の評価は地に落ちる。
どうしてか。それは僕がいちばん最初に「シャワーの温かさ」を評価し始めたからだ。
言葉によって、脳は自動的に「事実ベースでの思考」ではなく「評価ベースでの思考」を始めた。
シャワーを浴びて最初に素晴らしかったのは「感覚」なのにも関わらず、いつの間にか「評価」がそれにすり替わった。
そしてその評価が大きくなり、今度は自分を苦しめる。


評価や理解というものは、このように、あまりにもうつろいやすい。
僕たちの思わぬ方向にふくれてゆく。


「心地良い」と「素晴らしい」が最初に生まれた時は、その違いはわずかだった。
だけど彼ら兄弟(特に「素晴らしい」の方)は独り歩きをはじめ、成長し、まったく別のものに成長する。
「評価」はブクブクと肥り、よく僕らに攻撃を始める。このプロセスはよく、ものの数秒の間に起こる。

そして僕たちの脳は、たやすく「事実」と「評価」を混同する。
赤ん坊の頃にはよく似ていても、成長した姿はまるで違う。


「素晴らしい」というのは評価であり、扱いが非常に難しい。
「素晴らしい」という言葉に限らず、なるべく「評価ベースの言葉」ではなく「事実ベースの言葉」を使った方が、自分を苦しめることが少なくて済む。


僕たちの妄想は、たやすく評価ベースの言葉に引きずられる。


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