Friday, February 10, 2017

善悪の判断の上手な捨て方 | 借金1000万円の話

「良い」と「悪い」の判断を捨ててしまうこと。
こうすれば、ものすごく楽になる。

一口に言うのは簡単だ。
だけどこれは、借金の返済みたいなもんだ。
たとえば借金が1000万円あれば、これを一気に返済するのは大変だろう。
心で「借金のない生活を送ろう」と決意したからと言って、すぐに返済できるわけじゃない。

あまりに借金が大きいと、減らせるのはいちどに少しずつだ。
だけど10000円ずつ、1000円ずつ、100円ずつ返してゆけば、少しずつ借金は軽くなってく。
時には大きな収入があって、ごそっと借金が減る時もあるだろう。
運が良ければ、完済する日さえ来るかもしれない。
(ひとつ言うと、借金があることに悩むこと自体が、借金の一形態なので、気長にやろう)

だけどまずは、僕たちが借金まみれであることを理解しよう。
僕たちには多額の借金がある。事実を認めることが重要だ。
(もしそうでなければ、どうしてこんなに悩んでいるのだろうか?)


「良い」と「悪い」は、僕たちの文化の根源にある。
僕たちは「良い」と「悪い」という、評価の奴隷だ。
善悪の判断は、僕たちの思考習慣に染み付いている。
僕たちは、いかに自分たちが善悪の判断をしているかにさえ、気付いていない。
だから、このロジックについてもまるで理解していない。
なぜならそもそも、1日に1万回以上におこなわれるという思考にすら、気付いていないのだから。

たとえば子どもは善悪の判断がつかない。
当たり前だ。なぜなら「善悪の判断」は、大人が作り出すものだからだ。
「善悪の判断」が思考の根底に染み付くことを、僕たちは「大人になる」と呼ぶ。
そして「賢くなること」とは、より多くのルールを覚え、より多くの判断ができるようになることだ。
そして人はだんだんと、社会に生きることがうまくなり、そして同時に不幸になってゆく。


だけど僕は「善悪の判断」が、良いものだとも、悪いものだとも思わない。
もしかしたら良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。
もしかしたら良いものでも、悪いものでもないかもしれない。

「善悪の判断が、良いものか、悪いものか」というのは、いわば「メタ判断」だといえる。
「善悪の判断は、良いものだ」と考えれば、自分を自分で肯定することになる。
だが逆に「善悪の判断は、悪いものだ」と考えれば、その時点やっぱり「善悪の判断」自体に対して「善悪の判断」をしているので、自分を自分で否定しながら、肯定していることにもなる。
つまり、どちらに転んでも「善悪の判断」を肯定していることになるのだ。


善悪の判断をやめるというのは、今までとはまったく違うレールに乗り換えるようなものだ。
あまりにもレールの形も、列車の形も違うので、
レールを乗り換えたつもりが、まったくうまく乗り換えられていないということも起きる。


「よし、今から、善悪の判断をやめた生き方をしよう」
「善悪の判断をやめた生き方は、清々しい。すごく”良いもの”だ」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間の彼らはまだ善悪の判断を続けている」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、でもこうやって他人を評価する事自体が”良くない”ことだ」
「俺はうまく善悪の判断をやめられていない。やっぱり”うまくいかない”」

このように「善悪の判断」は、メタ的に思考を操作する。
逆に、善悪の判断をやめた考え方というのは、たとえば、次のようなものだ。

「善悪の判断をやめた方が、楽になる」
「善悪の判断をやめた方が、清々しいし、幸福な感じがする」
「ところで、俺は善悪の判断をやめたけど、世間でまだ善悪の判断を続けている」
「だけど、それ自体は良いとも悪いことでもない」
「そういえば、テレビでよく見るあの有名人は、善悪の判断が強すぎる、考えてみれば愚かな奴だ」
「ああ、こうやって他人を評価すること自体が、善悪を判断することだな」
「まあでも、他人を評価すること自体が、良いことだとも、悪いことだとも言えないな」
「俺も人間だから、善悪の判断をすることだってあるさ」

こうやって「メタ的」に鎖をほどいてゆくのが、善悪の判断から遠ざかるということだ。
善悪の判断をやめているから「自分が善悪の判断をしたこと」さえも「良い」とも「悪い」とも考えないのだ。





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