Friday, February 10, 2017

「満足すれば進歩はない」の嘘

僕たちは、満足しないように教育されている。
「満足すれば、進歩はない」

満足するのが良いのか?
それとも進歩するのが良いのか?
あなたもこの究極の二択について、人生で一度たりとも、考えなかったわけではないだろう。


たぶん、進歩するほうが正しいんだろう。
なぜなら、人類の歴史は進歩の歴史であった。
進歩があったからこそ現在の我々があり、文明がある。
進歩は絶対的に正しい。この価値に逆らうことは誰にも出来ない。

そして結局、僕らの多くは満足することを捨てて、進歩することを選ぶ。
自分の幸福よりも、人の幸福よりも、進歩のほうがずっと重要だ。
だから、人生において、いつまでも満足する日は来ない。

ある者は、進歩を捨てて、満足する道を選んだ。
そして、進歩することをまったくやめてしまった。
だけど彼個人の幸福も、進歩を続ける人類の文明を土台としているかもしれない。


けれど、そもそも、こんな二択は馬鹿らしいと思わないだろうか。
なぜ満足と進歩は二者択一で、対極に位置していると考えるのだろう。
あまりにも硬直した質問、単純すぎる問いかけだと思わないだろうか。

こうも考えてみる。
「果たして人間は、満足しながら、進歩できるのだろうか」
だが、答えの出ない質問は、そもそも質問が悪いことが多い。

この質問は、どこが悪いのか。
もうひとつは、状態とふるまいを並列に考えているところだ。

「満足」は状態であり「進歩」はふるまいだ。
だが「状態」と「ふるまい」は別のものだ。
お互いはお互いに影響を与えるが、べったりと依存しあっているわけではない。

たとえばひとりの人が、人生に満足しているとしよう。
d進歩することが個人、そして周囲の幸福に寄与すると思うならば、そうするかもしれない。
たとえ不満だらけでも、必ずしも進歩しようと思うとは限らない。満足できていないからこそ、進歩する気力も起こらないかもしれない。


もうひとつは「満足」の定義が曖昧なことだ。
一体なにをもってして「満足」と言えるのだろう。
それは、どのレイヤーでの「満足」なのだろうか。

たとえば、日々の食事を美味しいと感じ、仕事でも幸福を感じて、人間関係も良好であれば、これは心理的に満たされている状態だ。
つまり「満足している状態」だと言える。
幸福度の高い状態を「満足している」と表現することが出来る。

だがたとえば、仕事上で課題を持ち、(仮に技術職であれば)より技術的に向上する余地があると考えること。
健康面で課題を持ち、より良い状態を得ようとするならば、これは「満足していない状態」だとも言える。
課題があるということを「満足していない」と表現することも出来る。


だが、日々の幸福度が高い状態にあるということと、今後の幸福のために寄与しようとすることは、まったく矛盾しないはずだ。


そしてもうひとつ重要なことは、別に僕たちは、進歩したくなければ、しなくても良いということだ。
なぜなら「進歩しなければ幸福でない」という考え自体が、大きく有害だからだ。(有害に働く場合が非常に多い)

そして逆に、進歩したければ、進歩するためにふるまえば良いということ。
進歩することが個人の幸福に寄与しそうならば、そうすれば良いし、そうでないならば、そうしなければ良い。
たとえばスポーツ選手やピアニストであれば、進歩することがより幸福につながるかもしれないし、たとえば闘病中の人であれば、今に満足することが何よりも大事かもしれない。
何がもっとも有効に機能するかということは、個々人のコンテキストによってまるで違う。

進歩には良い悪いもない。
それが「自分に有効に働くかどうか」をベースに考えてみよう。

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