「満足すれば、進歩はない」
満足するのが良いのか?
それとも進歩するのが良いのか?
あなたもこの究極の二択について、人生で一度たりとも、考えなかったわけではないだろう。
たぶん、進歩するほうが正しいんだろう。
なぜなら、人類の歴史は進歩の歴史であった。
進歩があったからこそ現在の我々があり、文明がある。
進歩は絶対的に正しい。この価値に逆らうことは誰にも出来ない。
そして結局、僕らの多くは満足することを捨てて、進歩することを選ぶ。
自分の幸福よりも、人の幸福よりも、進歩のほうがずっと重要だ。
だから、人生において、いつまでも満足する日は来ない。
ある者は、進歩を捨てて、満足する道を選んだ。
そして、進歩することをまったくやめてしまった。
だけど彼個人の幸福も、進歩を続ける人類の文明を土台としているかもしれない。
けれど、そもそも、こんな二択は馬鹿らしいと思わないだろうか。
なぜ満足と進歩は二者択一で、対極に位置していると考えるのだろう。
あまりにも硬直した質問、単純すぎる問いかけだと思わないだろうか。
こうも考えてみる。
「果たして人間は、満足しながら、進歩できるのだろうか」
だが、答えの出ない質問は、そもそも質問が悪いことが多い。
この質問は、どこが悪いのか。
もうひとつは、状態とふるまいを並列に考えているところだ。
「満足」は状態であり「進歩」はふるまいだ。
だが「状態」と「ふるまい」は別のものだ。
お互いはお互いに影響を与えるが、べったりと依存しあっているわけではない。
d進歩することが個人、そして周囲の幸福に寄与すると思うならば、そうするかもしれない。
たとえ不満だらけでも、必ずしも進歩しようと思うとは限らない。満足できていないからこそ、進歩する気力も起こらないかもしれない。
もうひとつは「満足」の定義が曖昧なことだ。
一体なにをもってして「満足」と言えるのだろう。
それは、どのレイヤーでの「満足」なのだろうか。
つまり「満足している状態」だと言える。
幸福度の高い状態を「満足している」と表現することが出来る。
だがたとえば、仕事上で課題を持ち、(仮に技術職であれば)より技術的に向上する余地があると考えること。
健康面で課題を持ち、より良い状態を得ようとするならば、これは「満足していない状態」だとも言える。
課題があるということを「満足していない」と表現することも出来る。
だが、日々の幸福度が高い状態にあるということと、今後の幸福のために寄与しようとすることは、まったく矛盾しないはずだ。
そしてもうひとつ重要なことは、別に僕たちは、進歩したくなければ、しなくても良いということだ。
なぜなら「進歩しなければ幸福でない」という考え自体が、大きく有害だからだ。(有害に働く場合が非常に多い)
そして逆に、進歩したければ、進歩するためにふるまえば良いということ。
進歩することが個人の幸福に寄与しそうならば、そうすれば良いし、そうでないならば、そうしなければ良い。
たとえばスポーツ選手やピアニストであれば、進歩することがより幸福につながるかもしれないし、たとえば闘病中の人であれば、今に満足することが何よりも大事かもしれない。
何がもっとも有効に機能するかということは、個々人のコンテキストによってまるで違う。
進歩には良い悪いもない。
それが「自分に有効に働くかどうか」をベースに考えてみよう。
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