Friday, February 17, 2017

「人より優れていたい」の罠

「人より優れていたい」という気持ちが、人にはある。
僕にもあなたにもある。
決してないとは言わせない。

たとえば、こんな話がある。
とある海外で、年収3000万円の人が、年収3010万円の同僚を羨んだそうだ。
これは分りやすいタイプの「人より優れていたい」だ。

たとえばブランド志向の人が、高級品を求めるのは何故なんだろう。
これも分りやすい「人より優れていたい」だ。
逆に、ブランド志向を馬鹿にする人もいる。
だけど「ブランドに踊らされていない俺の方が賢い」と考えているとしたら、これも「人より優れていたい」だ。

たとえば、最近オープンしたオシャレなカフェにいち早く並ぶ人にも「人より優れていたい」が紛れているかもしれない。

たとえば、瞑想を何年も続けている人さえ、
「他の人よりうまく瞑想したい」
「瞑想している自分は、他人より優れている」
という風に、無意識に考えているかもしれない。


「人より優れていたい」と。
あともうひとつ。
「人より劣っていたくない」。

この二つは強かれ弱かれ、意識しているにせよ意識していないにせよ、僕たちが共通して持っている気持ちだ。


この気持は果たして、必要なんだろうか?
言葉を変えれば、僕たちの幸福に、寄与しているんだろうか?


なぜなら、あなたが人より優れるということは、他の誰かがあなたより劣るということだ
そして他の誰かが優れるということは、あなたが人より劣るということだ。
世界の半分の人間が優れていれば、残り半分は劣っていることになる。

これは絶対に両方であり、片方だけが起こることはない。
「すべての人が、人より優れている」というのは、論理的にあり得ない。


「人より優れようとすること」を支持する人は、比較が幸福に「寄与している」と考える。
よく語られる言葉は、

「人より優れようと思うから、人間は成長する」
「人より優れようと思わなければ、どうやって技能を伸ばすのか」

というものだ。

人間の幸福は、人より優れようとすることによって生まれる。
成長のための努力こそが尊い、という考え方だ。

だけど、この考え方にはひとつの隠れた前提条件がある。
それは「人より優れようと思ったほうが、人より優れられる」という仮定だ。
だけど、本当にそうなのだろうか?
「人より優れたいという気持ち」と「人より優れている度合い」の相関性について、統計は取られているのだろうか?(もしかしたら、取られているかもしれないけれど)

逆に「人より優れたい」という気持ちが邪魔になって、結果的に人より優れられない、というケースも考えられないだろうか。

そしてもし、この二つに相関があったとしても「人より優れたい」と思い、実際に「人より優れる」ことは、僕らの幸福度を上げているのだろうか。
「人より優れること」は当たり前のように「良いもの」だと思われているけれど、本当にそうなのだろうか。


別に僕は「人と比べるのをやめた方が」「人間は成長できる」と主張したいわけじゃない。
「比較をやめた方が良い」とも思わないし、そもそも「人間の成長の価値」さえ、本当には信じていない。


だけど「人より優れたい」という気持ちが、僕らが思っているよりも、ずっと有害に働いているんじゃないだろうか、幸福に寄与せず、むしろマイナスに働いている可能性が高いんじゃないかとは考えている。


別に、人より優れなくても良い。
僕は自分の幸福のために、寄与する行動を取りたい。

たとえば「人より優れた趣味」なんか、持たなくて良い。
人より優れたいがために、本当は気の進まないことに、時間を費やすことはない。
たとえそれが世間で、どれだけ良いものだと言われていようと。


こんなことを考えたのは、今日、瞑想をしながら音楽を聴いていて(音楽を聴くために瞑想をしていて)、すごくそれが楽しかったので、これを趣味のひとつにしようと思った。

ただ、それ自体はすごく楽しいことのはずなのに、途中で雑念が湧いてきた。
「音楽を聴くなんて、簡単だ」「あまりに受動的な趣味だ」「音楽を演奏するほうが、ずっと尊い」という風に。

たとえば「やり抜く力 GRIT(グリット)」に書かれているように、なるべく自分の能力を引き出す人生の方が良いのではないだろうか?
音楽を聴くばかりで、少しも自分の能力が磨かれない趣味は、ぬるま湯に浸っているようなものなのではないだろうか?
と考えて、音楽を聴くことを、そのままには楽しめなくなってきた。


だけど、一番重要なのは「なぜ自分が、そう思うのか?」ということだ。
そして「何故こんな気持ちを持つのか?」と考えた結果、この意識のベースには「人より優れた趣味を持ちたい」という前提があることに気付いたのだ。

「自分の能力を磨くタイプの趣味」=「優れたもの」
「能動的な趣味を持つ自分」=「人より優れた趣味を持った自分」

この図式が反応しているのだなと気付いた。

なので僕は、それと同時に、人より優れた趣味を持たなくても良いことにも気付いた。
「人より優れたい」という気持ちを無視すれば、別に、能動的な趣味なんか持たなくても良い。
たとえそれがどんなに尊いものであろうとも、良いものであろうとも、少なくとも、今の僕には気が進まない。



こうやって趣味ひとつを選ぶのにも「人より優れたい」は、判断に影響を与えてくる。
自分自身が影響されているという事実に気付けば、より右と左は決めやすくなるだろう。

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