Saturday, February 18, 2017

「世界は良いものだ」という価値観

死角。


身近に存在するものほど、見えない。
たとえば僕らは空気に囲まれているが、空気を意識することはほとんどない。

これと同じように、僕らのあまりに身近な価値観は、見えない。
価値観の根底にあるものほど、死角にある。
だがその逆に、面積は巨大だったりする。


ところで今日、僕は

「世界は良いものだ」

ということに気付いた。


ここでいう「世界は良いものだ」というのは、
「安心できる場所だ」とか「味方だ」とかいうのと似た意味だ。


- 世界は悪いもの、敵である
- 世界は自分の外側にある
- 多くの敵の中に、自分が脅えながら存在する

- 世界は良いもの、味方である
- 世界と自分には境目がない
- 良い世界の一部分として、自分が存在する


世界に対してどちらのイメージを持つかによって、気分はまるで変わってくる。
世界に対しての認知。すなわち「世界観」は僕らの感情、行動に大きな影響を及ぼす。
この持続性は無限だ。(認知自体が変わらない限りは)
そして僕らは影響を受けていることにさえ気付かない。


僕は日々、瞑想をしながらも、自分の心の中に、いつも不安がくすぶっているのを感じていた。
だけれど、なかなか深い安心を感じることが難しかった。

だが、そもそも「なぜ不安を感じるのだろう」ということを問いかけてみたとき。
この心は「世界を敵のように感じている」「世界に対して脅えている」ということが分かった。

そして理解したのは「世界は敵だ」という図を描きながら、安心を感じることは難しいということだ。
たとえ安心を感じられたとしても、それはごく一部分的なものになる。
なぜなら「99の敵」の中で「1の自分」が安心しようとしている状態なのだから。

だがこの逆に「世界は良いものだ」「世界は安心できるものだ」と考えれば、99の良い世界の中に、1の良い自分が存在することになる。
つまり、安心の色を塗る面積が、大幅に違うのだ。


僕は自分が、世界を敵だと感じていることにすら、意識的には気付いていなかった。
これが、またひとつ「大きな面積を占める死角」を理解した。


だがまだひとつ、大きな問題がある。
「世界は良いものだ」と考えた時に行き当たる、論理的な矛盾だ。

たとえば本当に「世界は良いもの」なのだとすれば、なぜ世界に詐欺師がいるのだろうか?
「世界は良いもの」という価値観を持つならば、詐欺師に騙された時には、世界をどう理解すれば良いのだろう?
世の中の危険を避ける時に、この価値観は有用なのだろうか?

この矛盾を放置するのは、危険だ。
なぜならいつか、矛盾に気づいた時に、自分という読者が冷めてしまう。
特定の世界観を持つのは、フィクションのようなものだ。
だからこそ読者のために、矛盾の少ない物語を描く必要がある。

ただこれは前述のとおり、フィクションなので、事実かどうかはさておき、整合性さえ取れていれば良い。
「自分という読者」の支持さえ得られれば、それで良いのだ。


「世界は良いものだ」と考えても「世界は悪いものだ」と考えても、どちらにせよ、どちらかが事実ということはない。どちらもが事実だとも言える。
だが「世界は良いものだ」と考えたときの方が、僕の気分が10倍も良くなることだけは分かっている。
重要なのは事実ではなくて、世界をどう理解するかという手順だ。


それで僕は、
「詐欺師は【世界が良いものだ】ということに気付いていない」
「【世界は良いものだ】と気付いていない人だけが、悪さをたくらむ」
という結論に行き着いた。

これで整合性は完璧だ。
僕の頭の中ではつじつまが合った。
少なくとも、自分という読者を納得させられそうな気はする。



世界は良いものだ。
なぜなら、そう思うことが、僕にとってものすごく楽な生き方だと思うから。



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