Saturday, February 11, 2017

不安は存在しない | 感情のラベリングが有害になる場合

「不安」は存在しない。
僕たちが「存在していると思い込んでいる」だけだ。


僕たちは自分たちの感情にラベリングをする。

ある感情は「不安」と呼ぶ。
ある感情は「安心」と呼ぶ。
ある感情は「失望」と呼ぶ。
ある感情は「期待」と呼ぶ。


ラベリングは、非常に強力なツールだ。うまく使えば武器になる。
自分の感情に対するラベリングがうまければうまいほど、感情を理解し、それを賢く扱えるようになる。

自分の感情を説明できないよりは、説明できた方がずっと良い。
うまく生きることが出来るようになる。
「今まで説明がつかなかった、モヤモヤとした感じ」に、はっきりとした名前が与えられた瞬間は、まさに天啓だ。(ユリイカ!)
過去よりもずっと世界がクリアになり、頭は冴え、魂さえ救われたような気持ちになるだろう。


だが同時に、別のレイヤーにおいて考えると、感情というものは、世界にそもそも存在しない。
「感情」という名前での、様々なバリエーションでの、言葉でのラベリングが存在するだけだ。
これは人間の説明だ。

たとえばひとつの状態を「不安」と呼ぶ。
これは状態に対する「説明」であり「実体」ではない。
あくまでも言葉による働きであり、認知的な理解の方法のひとつだ。

たとえば動物の世界では、特定の状態を「不安」だと表現したりはしないし、そう理解したりもしない。
自分たちの特定の状態に対してラベリングをするのは、人間特有の行為だ。


そしてこの「感情のラベリング」は、どんなシチュエーションでも常に、幸福に働くとは限らない。
ラベリングするからこそ、自分の状態をフラットに観察できず、過剰にマイナスの状態に陥ってしまうという場合もある。
これは、非常に不幸なことだ。


たとえば。

コーヒーを飲みすぎた昼下がり、カフェインの効果で胸が締め付けられている人がいる。
これに「不安」という言葉で理解すれば、彼の脳はそれを「不安」だと理解する。
そうすると何故だか分からないが彼の「つらさ」は増大する。
ひとつの状態を「不安」だと理解することによって、状態はより深刻になるのだ。
いわば、自分で自分を洗脳しているような状態だ。


だけど彼は、これを「単なる、肉体の反応だ」と理解することも出来る。
「そういえば、今日はコーヒーを飲みすぎているな」「カフェインの効果で、胸が締め付けられているだけだ」と理解することも出来る。
そうすると何故だか「つらさ」は減少する可能性が高い。


そしてここで重要なポイントは、ひとつの状態を「心理的なもの」としてラベリングするか「肉体的なもの」として理解するかは、自由なのだということだ
たとえコーヒーを飲みすぎていなくたって、いつだって自由だ。


今感じ取っているのは、心理的現象なのだろうか、それとも肉体的現象なのだろうか?
だけど「どちらなんだろう」という疑問には、あまり意味がない。
なぜならこの二つはお互い、同じもの、表裏一体のものだ。

僕たちは、常に肉体的な現象を通してしか、心理的現象も感じ取ることが出来ない。
そして実は、肉体現象を理解する手法として、心理上のラベリングをおこなっているに過ぎない。

肉体現象なしの「不安」や「期待」も存在しない。
仮にもし存在したとしても、感知することさえ出来ないだろう。
(胸が締め付けられない「不安」や、胸踊らない「期待」を想像できるだろうか?)


では、どんな時にラベリングをおこない、どんな時にラベリングをおこなわない方が良いのか。

ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)が楽になるなら、そうするのが良いだろう。
ラベリングすることで心(もとい、肉体的な状態)がつらくなるならば、やめた方が良いだろう。
「いま、効果的に働く方」を選んであげるのがいい。





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