瞑想で心を観察をする。
この表現は現代人にとって、ものすごく分かりづらいののだと思う。
「心を観察しましょう」「気付きましょう」と言われても、一体それはどういうことなんだろう。何をどうやったら良いか分からない。
本にも本質的なことは書かれていないし、あるのはヒントだけ。
まるで各々が手探りでやるようなものだ。
根気強く続けれいればコツが分かるかもしれないけれど、手順がちゃんと言語化されていないから、自分が正しいことをやっているかどうかも分からなくなる。
確かに瞑想というのは、脳の高機能な部分を扱うものだから、その本質が言葉で表現出来なくてもおかしくはないのだけれど。
それでも、もう少し分りやすい表現はないんだろうかと、いつも思う。
(そういう意味で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」はすごい)
この観察というものを、自分なりに解釈すると、
「自分自身の体験を外部化すること」
「自分自身に起こるイベントをトリガーすること」
だと考えている。
体験の外部化とは、瞑想の本でもよく書かれているとおり
「自分の思考」=「自分自身」
「自分の感情」=「自分自身」
という状態を捨てて「自分」と「体験」の間の距離に気付くことだ。
そして、そのために「イベントをトリガーすること」が必要になる。
「イベントをトリガーする」というのは「心の働きに気付く」ということと同じ意味だ。
だが「自分自身にイベントが起きる」「それをトリガーする」という表現で考えた方が、僕はなんだかしっくり来る。
たとえばタイマーを付けて瞑想をすれば、瞑想中にも、何度か残り時間が気になるかもしれない。それが「イベント」だ。
その時は「残り時間が気になるというイベントが起きたんだな」と思って、それを理解する。
「ああ、もっと瞑想がしたいのに、明日は月曜日だ」と思うかもしれない。
それも心に起きたイベントだ。イベントが起きたことを理解する。
たとえば、エアコンの風が気になったとする。それは「意識がエアコンの風に向いた」という「イベント」だ。
これもイベントの発生だと理解する。
こうやって自分自身に起こるイベントを、ひとつずつ発見すること。
そもそも、イベントが起きているということに気付くこと。それがトリガーするということだ。
より多くのイベントをトリガーして、そして理解すること。そしてリリースすること。
これを繰り返すことが瞑想の観察なのだと、いま僕は考えている。
---
ところで「観察の瞑想」で、心の中で言葉を使うことは、決して悪いことではない。
たとえば「あ、いま俺は、仕事のことを考えたな」とか、心の中で考えても良いのだ。
言葉は、自転車に乗る時の補助輪のようなものだ。
「非言語的に気付く」というのは高度で難しいから、言葉を使って観察することに慣れてきてからで良いと思う。
Thursday, December 29, 2016
Saturday, December 24, 2016
マインドフルネスに音楽を聴けば5分で素晴らしい気持ちになれる
僕たちは音楽が大好きだ。
街に出れば、カフェでもコンビニでもショッピングモールでも、どんな店に入っても、必ずと言って良いほど音楽がかかっている。
テレビをつければ、ドラマでもバラエティ番組でも、無数の音楽が使われている。
YouTubeでも、世界中で音楽は、膨大な回数が再生されている。
僕らは通学や通勤の途中にも、イヤホンで音楽を流す。
このように現代の世界では、音楽の存在しない場所は、ほとんど存在しない。
月額課金制のサービスやアプリやYouTubeで、ほとんどお金をかけず、無限の音楽を聞くことが出来る。
音楽はあまりにも気軽で、ありふれすぎていて、どんどんその重要さは低下している。
だけど僕らは、こんなに世界に溢れかえっている音楽を、本当に経験していると言えるだろうか?
「音楽を味わう」という経験を、一体どれぐらいしているだろうか?
最後に耳を傾けて音楽を味わったのは、いつのことだろうか?
音楽が「素晴らしい気持ち」をもたらしてくれたのは、いつのことだろうか?
僕は今日、人生で久しぶりに、音楽を聴いた。
音楽を聴くという体験を味わった。
そして今まで僕がいかに、音楽聴いていなかったかということが証明された。
人生でも本当に長い間、音楽を「ただ耳に当てていた」ように思う。
だが「音楽を聴く」という行為は「音が耳に触れている」という現象とは、まったく違うものだと気付かされた。
具体的な方法は、次の通りシンプルなものだ。
- 座る(だけど、姿勢はなんでも良い)
- 音楽を流して集中する(イヤホンをつけても、スピーカーを使っても、なんでも良い)
だけど音楽を聴いている間は、この体験に集中する。他のことはしない。
僕のスピーカーの前に座って、他の瞑想をする時と同じようにあぐらを組んだ。
曲は自分の好きなもの、特に穏やかで平和なものを選んだ。
エルヴィス・プレスリーのゴスペルだ。(Elvis Presley - Ultimate Gospel)
そして30分間のタイマーをかけた。
このたった30分間が、本当に素晴らしい経験になった。
(別に必ずこの時間じゃなくても良い、たった5分間だけでも、同じ経験することは出来る)
まるで1日中、果てしなく音楽を聴いていられそうになった。
今もこの記事を書きながら、同じ音楽を流し続けているが、その時の感動は失われ、まったく違った経験だと感じられる。
ついさっきまで「耳を傾けて音楽を聴いていた瞬間」が懐かしい。
このように音楽は「聴き方」によって、まったく別の経験を僕らにもたらしてくれるのだ。
音楽の聴き方は、人様々だ。
アーティストの熱烈なファンであれば、その人の顔が思い浮かぶかもしれない。
音響機材に詳しい人であれば、音質のことが気になるかもしれない。
だが僕の場合は、次のポイントに注意した。
- 音楽が自分に与えてくれる経験、エモーションに注意する
- 音楽によって今の瞬間を味わい、人生の経験のひとつにする
- 音楽にひたる、音と一体化する
- たとえば映画のシーンに使われている音楽のように、音楽が表現している情景を思い浮かべる
音楽を聴くということは、日常の世界を抜け出して、より深遠な世界にタッチする行為だ。
この「能動的な聴き方」をしてみて、音楽を聴くということは、人生の経験の質をグンと上げてくれるだろうと感じた。
僕らは時に音楽によって、偶然素晴らしい気持ちになることがある。
たとえば学校の卒業式で音楽が流れたり、たとえば、クリスマスにユニバーサル・スタジオ・ジャパンでツリーを見ながら音楽を聴いた時などだ。
だけどまったく同じ音楽を聴いても、いつでも同じ気持ちになれるとは限らない。
むしろ聞けば聞くほど、感動が薄れて、無味乾燥なものになっていってしまわないだろうか。
だが「素晴らしい気持ち」になるためには、必ずしも特別なシチュエーションは必要ない。
ただ「音楽をちゃんと聴く」だけでも良いのだ。
音楽で「素晴らしい気持ち」になるのは、自分自身が「この体験を味わおう」というオープンな気持ちになっている時だ。
たとえ素晴らしい音楽が流れていても、その体験を味わう気持ちがなければ、経験は退屈なものになる。
(昔、学校の授業でクラシックを聞いて、退屈したことがあっただろう)
つまり逆に考えると「積極的に体験をする気持ち」さえあれば、はるかに多くのものが「素晴らしい体験」の対象となるのだ。
(こう考えると、リーズナブルに多くの音楽が聴ける現代の環境は、本当に素晴らしいものだ。材料はたくさんある!)
「集中して音楽を聴く」という習慣を、ぜひオススメする。
音楽が好きな人ならば特に、これは素晴らしい経験になるはずだ。
ところでこの「体験的な聴き方」の真逆に位置するのは「音楽なんて結局、音の集合にすぎない」という「非体験的な聴き方」だ。
僕も30分の間に、何度か、この感覚に陥りそうになった。
今さっきまで感じていた「意味」が急に失われて、音楽がまったく無意味なものに感じられてきてしまう。
だけど決してこれは、音楽自体から魔法が失われたわけじゃない。
自分自身の注意が逸れて、心の状態が変わったというだけの話だ。
だから僕らは「聴き方」も工夫する必要がある。
工夫すればするほど「聴き方」がうまくなって、音楽でより良い経験を手に入れることが出来ることだろう。
街に出れば、カフェでもコンビニでもショッピングモールでも、どんな店に入っても、必ずと言って良いほど音楽がかかっている。
テレビをつければ、ドラマでもバラエティ番組でも、無数の音楽が使われている。
YouTubeでも、世界中で音楽は、膨大な回数が再生されている。
僕らは通学や通勤の途中にも、イヤホンで音楽を流す。
このように現代の世界では、音楽の存在しない場所は、ほとんど存在しない。
月額課金制のサービスやアプリやYouTubeで、ほとんどお金をかけず、無限の音楽を聞くことが出来る。
音楽はあまりにも気軽で、ありふれすぎていて、どんどんその重要さは低下している。
だけど僕らは、こんなに世界に溢れかえっている音楽を、本当に経験していると言えるだろうか?
「音楽を味わう」という経験を、一体どれぐらいしているだろうか?
最後に耳を傾けて音楽を味わったのは、いつのことだろうか?
音楽が「素晴らしい気持ち」をもたらしてくれたのは、いつのことだろうか?
僕は今日、人生で久しぶりに、音楽を聴いた。
音楽を聴くという体験を味わった。
そして今まで僕がいかに、音楽聴いていなかったかということが証明された。
人生でも本当に長い間、音楽を「ただ耳に当てていた」ように思う。
だが「音楽を聴く」という行為は「音が耳に触れている」という現象とは、まったく違うものだと気付かされた。
具体的な方法は、次の通りシンプルなものだ。
- 座る(だけど、姿勢はなんでも良い)
- 音楽を流して集中する(イヤホンをつけても、スピーカーを使っても、なんでも良い)
だけど音楽を聴いている間は、この体験に集中する。他のことはしない。
僕のスピーカーの前に座って、他の瞑想をする時と同じようにあぐらを組んだ。
曲は自分の好きなもの、特に穏やかで平和なものを選んだ。
エルヴィス・プレスリーのゴスペルだ。(Elvis Presley - Ultimate Gospel)
そして30分間のタイマーをかけた。
このたった30分間が、本当に素晴らしい経験になった。
(別に必ずこの時間じゃなくても良い、たった5分間だけでも、同じ経験することは出来る)
まるで1日中、果てしなく音楽を聴いていられそうになった。
今もこの記事を書きながら、同じ音楽を流し続けているが、その時の感動は失われ、まったく違った経験だと感じられる。
ついさっきまで「耳を傾けて音楽を聴いていた瞬間」が懐かしい。
このように音楽は「聴き方」によって、まったく別の経験を僕らにもたらしてくれるのだ。
音楽の聴き方は、人様々だ。
アーティストの熱烈なファンであれば、その人の顔が思い浮かぶかもしれない。
音響機材に詳しい人であれば、音質のことが気になるかもしれない。
だが僕の場合は、次のポイントに注意した。
- 音楽が自分に与えてくれる経験、エモーションに注意する
- 音楽によって今の瞬間を味わい、人生の経験のひとつにする
- 音楽にひたる、音と一体化する
- たとえば映画のシーンに使われている音楽のように、音楽が表現している情景を思い浮かべる
- 心地良い音があれば、それを楽しむ
こういった能動的な聴き方をすると、音楽は「単なる音の塊」ではなくなる。
音楽を聴くことが、量的ではなくて、質的な経験をもたらしてくれる。
音楽は、絵画と同じで、言葉だけでは決して表現できない、抽象度の高い世界を僕らに見せてくれる。(君はクオリアを信じるか?)音楽を聴くということは、日常の世界を抜け出して、より深遠な世界にタッチする行為だ。
この「能動的な聴き方」をしてみて、音楽を聴くということは、人生の経験の質をグンと上げてくれるだろうと感じた。
僕らは時に音楽によって、偶然素晴らしい気持ちになることがある。
たとえば学校の卒業式で音楽が流れたり、たとえば、クリスマスにユニバーサル・スタジオ・ジャパンでツリーを見ながら音楽を聴いた時などだ。
だけどまったく同じ音楽を聴いても、いつでも同じ気持ちになれるとは限らない。
むしろ聞けば聞くほど、感動が薄れて、無味乾燥なものになっていってしまわないだろうか。
だが「素晴らしい気持ち」になるためには、必ずしも特別なシチュエーションは必要ない。
ただ「音楽をちゃんと聴く」だけでも良いのだ。
音楽で「素晴らしい気持ち」になるのは、自分自身が「この体験を味わおう」というオープンな気持ちになっている時だ。
たとえ素晴らしい音楽が流れていても、その体験を味わう気持ちがなければ、経験は退屈なものになる。
(昔、学校の授業でクラシックを聞いて、退屈したことがあっただろう)
つまり逆に考えると「積極的に体験をする気持ち」さえあれば、はるかに多くのものが「素晴らしい体験」の対象となるのだ。
(こう考えると、リーズナブルに多くの音楽が聴ける現代の環境は、本当に素晴らしいものだ。材料はたくさんある!)
「集中して音楽を聴く」という習慣を、ぜひオススメする。
音楽が好きな人ならば特に、これは素晴らしい経験になるはずだ。
ところでこの「体験的な聴き方」の真逆に位置するのは「音楽なんて結局、音の集合にすぎない」という「非体験的な聴き方」だ。
僕も30分の間に、何度か、この感覚に陥りそうになった。
今さっきまで感じていた「意味」が急に失われて、音楽がまったく無意味なものに感じられてきてしまう。
だけど決してこれは、音楽自体から魔法が失われたわけじゃない。
自分自身の注意が逸れて、心の状態が変わったというだけの話だ。
だから僕らは「聴き方」も工夫する必要がある。
工夫すればするほど「聴き方」がうまくなって、音楽でより良い経験を手に入れることが出来ることだろう。
食事を味わって食べれば人生のクオリティがグンと上がる
瞑想を始めてから、僕は食べ物をちゃんと味わうようになった。
そうすると、今まで忘れていた食べ物の美味しさを発見して、感動するようになった。
食事のたびに「何故、食べ物はこんなに美味いんだろう」とため息を漏らしている。
(それに日本は世界一、食事がうまい国だ! 皆、この事実を忘れているだろうが)
瞑想のフォーマルな訓練の中に「食べ物をよく味わう」というワークがある。
そう、マインドフルネスは日常のあらゆる場面に広げられる。
これは決して義務じゃない。
だけどこの習慣は、確実に人生のクオリティを上げてくれる。
- 食事をしている環境を意識する
こういった全ての感覚が、食事を楽しむことにつながる。
こうやって物を味わって食べると、満足を味わうために「何か美味しいものを食べに行きたい」なんて、夢想し続ける必要はない。
なぜなら、目の前にある食べ物全てが、味わう対象になり、胃に満足を与えてくれるものになるからだ。
これは無料で食事のグレードをランクアップさせる方法だ。
(もちろんたまには、お金を出してとびきり美味いものを食べるのも最高だ)
こうやって、食事を「自動的な行為」から「能動的な行為」に戻してみてはどうだろうか。
僕たちの人生のクオリティを上げてくれるものは、決して高額な食事ではない。
すべての食事を「味わう」という習慣だ。
そうすると、今まで忘れていた食べ物の美味しさを発見して、感動するようになった。
食事のたびに「何故、食べ物はこんなに美味いんだろう」とため息を漏らしている。
(それに日本は世界一、食事がうまい国だ! 皆、この事実を忘れているだろうが)
瞑想のフォーマルな訓練の中に「食べ物をよく味わう」というワークがある。
そう、マインドフルネスは日常のあらゆる場面に広げられる。
これは決して義務じゃない。
だけどこの習慣は、確実に人生のクオリティを上げてくれる。
思えば僕は、今までの人生のほとんどの場面で、食べ物は半分「口にかきこむだけのもの」だった。
自分ではちゃんと味わって食べていると思い込んでいたが、実は違った。
無意識に「味を感じているだけ」「腹を満たしているだけ」の状態に陥っていた。
(だって、同じ食べ物なら、食べ方によって味が変わることなんてないだろう?)
だけど今では「自分の食べ方」によって、食事という体験がまるで変わることを理解している。
たとえば出かけ中に、コンビニでチキンを買っても、以前ならば歩きながら、味も分からずに頬張っていた。
だけど、歩きながらものを食べると、味の80%は分からなくなってしまう。
そこに存在するのは「ものを食べているイメージ」だけだ。
お金を払ってイメージを食べるなんて、まったくの無駄だ。
だから今では、外で小腹を満たすときでも、立ち止まって食べる習慣が身についた。
「ものを味わって食べる」。
これを時間の無駄だと思うかどうかは、あなた次第だ。
食べ物を味わうよりも、少しでも多くの時間、スマホを触っていたいと思う人もいるかもしれない。
それは自由だ。
だが「食事を味わう」という喜びは、スマホでは得られないものだ。
食事の喜びは、他のものでは代替が効かない。
ところで、食べ物をよく味わう時に意識できるのは、味だけではない。
- 目でよく見る
- 香りを嗅ぐ
- 味を噛みしめる
- 舌触りを楽しむ- 食事をしている環境を意識する
こういった全ての感覚が、食事を楽しむことにつながる。
こうやって物を味わって食べると、満足を味わうために「何か美味しいものを食べに行きたい」なんて、夢想し続ける必要はない。
なぜなら、目の前にある食べ物全てが、味わう対象になり、胃に満足を与えてくれるものになるからだ。
これは無料で食事のグレードをランクアップさせる方法だ。
(もちろんたまには、お金を出してとびきり美味いものを食べるのも最高だ)
こうやって、食事を「自動的な行為」から「能動的な行為」に戻してみてはどうだろうか。
僕たちの人生のクオリティを上げてくれるものは、決して高額な食事ではない。
すべての食事を「味わう」という習慣だ。
Saturday, December 17, 2016
音楽を聴きながら瞑想するのは邪道?
音楽を聴きながら瞑想をするのは邪道だろうか? 僕はそれも良いと思う。
決してフォーマルな方法ではないけれど。
年末だ。今日僕は、iPhoneの曲をblue tootlhでプレイヤーに飛ばして、クリスマスソングを聴きながら瞑想をした。
これがすごく良かった。新しい発見をした気分だ。
瞑想というのは、言ってみれば「自分の心と付き合う方法」だ。
セオリーはあるけれど、決まったやり方は存在しない。
ならば、そこに音楽が介在していたって何の問題ない。
音楽が関与すれば、心の働きももいつもとは違ったものになるだろう。
ひとつの曲から連想するイメージや、浮かび上がる感情を観察してみることになるかもしれない。
これは僕にとっては、初めての経験だ。
今日は呼吸に集中したり、何も努力をしたありしない。
自由に心を遊ばせて、そしてその働きを観察してみる。
いざ試していると、音楽と一緒に心地良い感覚にひたりながら、僕は自分の存在について内省していた。
いつの間にか、自分が宇宙の中に生きている一員であること、僕が大事に思う人や、知っている人、知らない人が、時を同じくして生きていることに思いを馳せていた。
はるか祖先から脈々と受け継がれてきた遺伝子のおかげで、地球が始まった時から受け継がれてきた歴史のおかげで、いま地球上に自分というものが存在する。
自然とそういう気持ちが沸き起こってきた。とても神聖な気持ちだった。
普通に過ごしていても、1年に1回ぐらいはこんな気持ちになることがあるけれど、瞑想はさらにその感覚を広げてくれた。
そして、たとえ瞑想をしている時はひとりきりでも、生命はひとりきりではないということを感じた。
僕は音楽が大好きだ。
大好きなものと一緒にやる瞑想は、楽しいものになる。
決してフォーマルな方法ではないけれど。
年末だ。今日僕は、iPhoneの曲をblue tootlhでプレイヤーに飛ばして、クリスマスソングを聴きながら瞑想をした。
これがすごく良かった。新しい発見をした気分だ。
瞑想というのは、言ってみれば「自分の心と付き合う方法」だ。
セオリーはあるけれど、決まったやり方は存在しない。
ならば、そこに音楽が介在していたって何の問題ない。
音楽が関与すれば、心の働きももいつもとは違ったものになるだろう。
ひとつの曲から連想するイメージや、浮かび上がる感情を観察してみることになるかもしれない。
これは僕にとっては、初めての経験だ。
今日は呼吸に集中したり、何も努力をしたありしない。
自由に心を遊ばせて、そしてその働きを観察してみる。
いざ試していると、音楽と一緒に心地良い感覚にひたりながら、僕は自分の存在について内省していた。
いつの間にか、自分が宇宙の中に生きている一員であること、僕が大事に思う人や、知っている人、知らない人が、時を同じくして生きていることに思いを馳せていた。
はるか祖先から脈々と受け継がれてきた遺伝子のおかげで、地球が始まった時から受け継がれてきた歴史のおかげで、いま地球上に自分というものが存在する。
自然とそういう気持ちが沸き起こってきた。とても神聖な気持ちだった。
普通に過ごしていても、1年に1回ぐらいはこんな気持ちになることがあるけれど、瞑想はさらにその感覚を広げてくれた。
そして、たとえ瞑想をしている時はひとりきりでも、生命はひとりきりではないということを感じた。
僕は音楽が大好きだ。
大好きなものと一緒にやる瞑想は、楽しいものになる。
Friday, December 16, 2016
瞑想と風邪
風邪を引いてから1週間。なかなか瞑想に集中できずにいる。
ちなみに風邪の原因は、薄い毛布で身を包みながら寝た夜に、猛烈に空気が冷え込んだからだ。
(瞑想をしているからと言って、いきなり超人になるわけではないだろう)
ところで風邪を引いてすぐの時は、1分の瞑想もできなくなった。体力がもたない。
たとえば歩きながらの瞑想も「歩くことに集中する」よりも「雑念」に身を委ねるほうが楽だった。
それから日数が経って、だんだんと体調が戻ってくるにつれ、瞑想の時間は5分、10分、15分と回復していった。
しかし、ようやく30分坐れるようになっても、まだ雑念が消えていくスピードが遅い。
風邪をひく前のような、集中度の高まりは感じられずにいる状態だ。
逆に、ふだん瞑想をしている時は、相対的には高い集中レベルを発揮していたのだなと気付かされる。
なんとももどかしいが「悪い瞑想はない」と自分を励ます。
運動にもリハビリ期間はあるし、瞑想だって同じだろう。
逆に、瞑想をすることによって、いま自分がどれぐらいのコンディションにあるのかが分かる、とも思った。定点観測のようなものだ。
一見、体力が回復してきているようであっても、瞑想に集中しきれないということは、まだ意識は完全に回復しきっていないのだ。
ひとつ良かったことは、風邪を引いている時は何かとネガティブになりがちだが、その環状のレベルは弱かったこと。
病み上がりに雑念が次々に浮かんできても、そのマイナスの影響度も弱く感じたことだ。
あとひとつは、まさに風邪で寝込んでいる最中に「心地良い呼吸」に集中すると、まるで体調が悪いのが嘘のように、心地良く眠れたことだ。
ちなみに風邪の原因は、薄い毛布で身を包みながら寝た夜に、猛烈に空気が冷え込んだからだ。
(瞑想をしているからと言って、いきなり超人になるわけではないだろう)
ところで風邪を引いてすぐの時は、1分の瞑想もできなくなった。体力がもたない。
たとえば歩きながらの瞑想も「歩くことに集中する」よりも「雑念」に身を委ねるほうが楽だった。
しかし、ようやく30分坐れるようになっても、まだ雑念が消えていくスピードが遅い。
風邪をひく前のような、集中度の高まりは感じられずにいる状態だ。
逆に、ふだん瞑想をしている時は、相対的には高い集中レベルを発揮していたのだなと気付かされる。
なんとももどかしいが「悪い瞑想はない」と自分を励ます。
運動にもリハビリ期間はあるし、瞑想だって同じだろう。
逆に、瞑想をすることによって、いま自分がどれぐらいのコンディションにあるのかが分かる、とも思った。定点観測のようなものだ。
一見、体力が回復してきているようであっても、瞑想に集中しきれないということは、まだ意識は完全に回復しきっていないのだ。
ひとつ良かったことは、風邪を引いている時は何かとネガティブになりがちだが、その環状のレベルは弱かったこと。
病み上がりに雑念が次々に浮かんできても、そのマイナスの影響度も弱く感じたことだ。
あとひとつは、まさに風邪で寝込んでいる最中に「心地良い呼吸」に集中すると、まるで体調が悪いのが嘘のように、心地良く眠れたことだ。
Tuesday, December 6, 2016
瞑想は心を「無」ではなく「からっぽ」にする
瞑想は心を無にする修行だと、一般的に考えられている。
瞑想を長く実践する人の中にも、これを誤解だと言う人もいうし、逆にそのとおりだと言う人もいる。
これは「無」の定義がそもそも違うのだ。
ただ存在する。
からっぽ。
何もしない。
無になるのではなくて、からっぽになる。空(くう)になる。
瞑想の究極の目的は、これだと思う。(もちろん人にもよるだろうが)
そして実は「無」と「からっぽ」には微妙なニュアンスの違いがある。
「無」はそもそも何も存在しない状態。
しかし「からっぽ」というのは「容器」はあるけれど「中身」が存在しない状態。
この二つは似ているようでけっこう違う。
だから人によって「からっぽ」のことを「無」と呼んだりするのだ。
無から有は生まれない。つまり無とは死のことだ。(本当に死が存在するかどうかはさておき)
いちど無になってしまえば、そこから戻ってくることは決して出来ない。
だが自分が容器であれば中身を注いだり、逆に中身を減らしたり出来る。
容器の中身が空になったとき、そいつが「からっぽ」だ。
サーチ・インサイド・ユアセルフ | 命がかかっているように呼吸する
瞑想の本「サーチ・インサイド・ユアセルフ」には「命がかかっているように呼吸する」という表現が紹介されており、最初、僕は首を傾げた。
「命がかかっている」という表現には「ガチガチに体を緊張させて、頑張る」というイメージがあったからだ。
それは瞑想に求められる態度とは全く逆のはずだと思った。
しかし今では「命がかかっている」ということを、別の角度で考えるようになった。
たとえばこう考えてみよう。
瞑想中に集中できなければ、その後に自分は、死ぬ。
「ダモクレスの剣」が頭の上に吊るされており、失敗すればそいつが落ちてくる。
集中するか、死ぬか。二者択一の受胎だ。
このように自分の命がかかっており、それを真剣に遂行しなければならないとき。
人はどうするのが適切だろうか。
おそらく、最も効果的にそれを遂行する手段は「注意」を向けつつ「リラックスする」ということなのだ。
僕たちは「集中する」ということの意味を履き違えている。
単に体を緊張させても、集中状態には入れない。それではただ疲れるだけだ。
かといって単にリラックスするだけでも、集中状態ではない。それはただだらけているだけ。
集中状態に入るには、注意とリラックスのバランスが取れている必要がある。
なおかつ、そのお互いが高いレベルで融合する時に、集中状態は起こる。
どちらかだけが高い状態でも、両方ともが低い状態でも、集中状態は起こらない。
ここで重要なのは「両者を高いレベルでバランシングさせる」ということだ。
たとえば次のような「注意」と「リラックス」のバランスがあるとすれば、集中状態に入れるのは最後の「D」の状態だ。
[A] 注意 強い : リラックス 弱い
[B] 注意 弱い : リラックス 強い
厳密に言うと、人は物事に直接「集中する」ということは出来ないのかもしれない。
「集中」というのは、行為ではなく状態だと思う。
人ができるのは「注意を向けること」と「リラックスすること」であり、その結果として「集中状態」が自然と起こるのだ。
これは瞑想の本質にも通じる。
(それが言語的なプロセスを経るか、非言語的なプロセスを経るかの違いはあるかもしれないが)
瞑想においても、集中状態に入るということは、おそらくスポーツ選手が「ゾーンに入る」ということとすごくよく似ている。
人が深い集中状態に入る時、そこには無駄な頑張りはない。むしろ心地良さしか感じていない。
「命がかかっているように呼吸する」には、深い注意と、深いリラックスの両者が必要だ。
「命がかかっている」という表現には「ガチガチに体を緊張させて、頑張る」というイメージがあったからだ。
それは瞑想に求められる態度とは全く逆のはずだと思った。
しかし今では「命がかかっている」ということを、別の角度で考えるようになった。
たとえばこう考えてみよう。
瞑想中に集中できなければ、その後に自分は、死ぬ。
「ダモクレスの剣」が頭の上に吊るされており、失敗すればそいつが落ちてくる。
集中するか、死ぬか。二者択一の受胎だ。
このように自分の命がかかっており、それを真剣に遂行しなければならないとき。
人はどうするのが適切だろうか。
おそらく、最も効果的にそれを遂行する手段は「注意」を向けつつ「リラックスする」ということなのだ。
僕たちは「集中する」ということの意味を履き違えている。
単に体を緊張させても、集中状態には入れない。それではただ疲れるだけだ。
かといって単にリラックスするだけでも、集中状態ではない。それはただだらけているだけ。
集中状態に入るには、注意とリラックスのバランスが取れている必要がある。
なおかつ、そのお互いが高いレベルで融合する時に、集中状態は起こる。
どちらかだけが高い状態でも、両方ともが低い状態でも、集中状態は起こらない。
ここで重要なのは「両者を高いレベルでバランシングさせる」ということだ。
たとえば次のような「注意」と「リラックス」のバランスがあるとすれば、集中状態に入れるのは最後の「D」の状態だ。
[A] 注意 強い : リラックス 弱い
[B] 注意 弱い : リラックス 強い
[C] 注意 弱い : リラックス 弱い
[D] 注意 強い : リラックス 強い
厳密に言うと、人は物事に直接「集中する」ということは出来ないのかもしれない。
「集中」というのは、行為ではなく状態だと思う。
人ができるのは「注意を向けること」と「リラックスすること」であり、その結果として「集中状態」が自然と起こるのだ。
これは瞑想の本質にも通じる。
(それが言語的なプロセスを経るか、非言語的なプロセスを経るかの違いはあるかもしれないが)
人が深い集中状態に入る時、そこには無駄な頑張りはない。むしろ心地良さしか感じていない。
「命がかかっているように呼吸する」には、深い注意と、深いリラックスの両者が必要だ。
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