Saturday, January 14, 2017

自分はどこにいる?

自分はどこにいるだろう。

僕の場合は、胸のあたりに「自分」を感じる。
胸のあたりの感覚を、無意識に「自分自身」として認識している。
胸のあたりに生じる感覚は、肉体的現象として処理していない。
ここで感じるものを「気分」とか「気持ち」という認識で受け取っている。

たとえば逆に、足の痛みであれば、肉体的な感覚としてとらえる。
たとえば背中の感覚も、ほとんどは肉体的な感覚として受け止める。
だけど胸のあたりの感覚は、自分自身であり、自分の心だと受け取っている。
だがこれも、単に設定値の違いによるものだ。

人によって「これの部分にある感覚が、自分だ」というものは違うはずだ。
だがこの、肉体的感覚を「自分自身だ」と認識する範囲が大きければ大きいほど、ショックを受けたり、疲労を感じたりする度合いが大きくなるように思う。
つまり、肉体に生じる感覚を、外部的なものとして処理できていない状態になる。

たとえば足が痛いと「疲れた」「もう動けない」と感じたり。
少しでも気温が低いと「寒い」「つらい」と感じるのは、「自分自身」を拡大して理解しすぎなのだ。
逆に疲れを感じにくい人は、たとえば足が痛くても「これは、単に足に痛みを感じているだけだ」と、それを自分自身ではなく、肉体的な感覚として処理する。
寒さに強い人は、気温が低くても、それも単に肉体が感じている現象に過ぎないと受け止める。

こうして、疲れを感じやすい人と、感じにくい人。
心理的に打たれ強い人、打たれ弱い人の差が生じる。

そこで、瞑想をしてみよう。
ただ足を組んで坐っているだけで、様々なネガティブな思考が湧き上がってくるだろう。
それを、出来る限り「肉体的現象にすぎない」という風に処理してみる。
体の外側に追い出してみる。

たとえば、
「明日は仕事だ、大変だな」
「もう何分瞑想をしただろうか? いつ終われば良いだろう」
「もうすぐ確定申告だ、死ぬほど面倒くさい」
という思考が走るたびに、肉体に変化が起こるはずだ。
そのたびに「これは肉体的現象にすぎない」と考えて、心ではなく、体で感覚を感じるようにしてみる。
「心の働き」だと思っていたものが「肉体の変化」にすぎないという風に、感じ方を変えてゆく。

自分がどっぷりとはまっている価値観ほど、とてもこの「外部化」「切り離し」など無理だと思えるかもしれない。
完全に心理的現象であり、逃げるすべなどないと感じられるかもしれない。
だけど、何度もこの外部化、切り離しにトライする。

こうしていくと、だんだんと、自分はどこにもいないんじゃないかと思えてくるだろう。
すべての自分の苦しさは、肉体的現象に過ぎず、自分というのは限りなく薄い、存在して存在しないようなもの。
このような感覚にたどり着くと、心理的な苦しさというものはほとんど消えてしまう。

もしそれでも自分がいるとすれば、それは呼吸の中かもしれない。


No comments:

Post a Comment