Thursday, December 29, 2016

観察の瞑想 | 自分自身に起きるイベントをトリガーする

瞑想で心を観察をする。
この表現は現代人にとって、ものすごく分かりづらいののだと思う。

「心を観察しましょう」「気付きましょう」と言われても、一体それはどういうことなんだろう。何をどうやったら良いか分からない。
本にも本質的なことは書かれていないし、あるのはヒントだけ。
まるで各々が手探りでやるようなものだ。
根気強く続けれいればコツが分かるかもしれないけれど、手順がちゃんと言語化されていないから、自分が正しいことをやっているかどうかも分からなくなる。

確かに瞑想というのは、脳の高機能な部分を扱うものだから、その本質が言葉で表現出来なくてもおかしくはないのだけれど。
それでも、もう少し分りやすい表現はないんだろうかと、いつも思う。
(そういう意味で「サーチ・イン・サイド・ユアセルフ」はすごい)


この観察というものを、自分なりに解釈すると、
「自分自身の体験を外部化すること」
「自分自身に起こるイベントをトリガーすること」
だと考えている。

体験の外部化とは、瞑想の本でもよく書かれているとおり
「自分の思考」=「自分自身」
「自分の感情」=「自分自身」
という状態を捨てて「自分」と「体験」の間の距離に気付くことだ。
そして、そのために「イベントをトリガーすること」が必要になる。


「イベントをトリガーする」というのは「心の働きに気付く」ということと同じ意味だ。
だが「自分自身にイベントが起きる」「それをトリガーする」という表現で考えた方が、僕はなんだかしっくり来る。

たとえばタイマーを付けて瞑想をすれば、瞑想中にも、何度か残り時間が気になるかもしれない。それが「イベント」だ。
その時は「残り時間が気になるというイベントが起きたんだな」と思って、それを理解する。
「ああ、もっと瞑想がしたいのに、明日は月曜日だ」と思うかもしれない。
それも心に起きたイベントだ。イベントが起きたことを理解する。
たとえば、エアコンの風が気になったとする。それは「意識がエアコンの風に向いた」という「イベント」だ。
これもイベントの発生だと理解する。

こうやって自分自身に起こるイベントを、ひとつずつ発見すること。
そもそも、イベントが起きているということに気付くこと。それがトリガーするということだ。

より多くのイベントをトリガーして、そして理解すること。そしてリリースすること。
これを繰り返すことが瞑想の観察なのだと、いま僕は考えている。



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ところで「観察の瞑想」で、心の中で言葉を使うことは、決して悪いことではない。
たとえば「あ、いま俺は、仕事のことを考えたな」とか、心の中で考えても良いのだ。
言葉は、自転車に乗る時の補助輪のようなものだ。

「非言語的に気付く」というのは高度で難しいから、言葉を使って観察することに慣れてきてからで良いと思う。


Saturday, December 24, 2016

マインドフルネスに音楽を聴けば5分で素晴らしい気持ちになれる

僕たちは音楽が大好きだ。

街に出れば、カフェでもコンビニでもショッピングモールでも、どんな店に入っても、必ずと言って良いほど音楽がかかっている。
テレビをつければ、ドラマでもバラエティ番組でも、無数の音楽が使われている。
YouTubeでも、世界中で音楽は、膨大な回数が再生されている。
僕らは通学や通勤の途中にも、イヤホンで音楽を流す。

このように現代の世界では、音楽の存在しない場所は、ほとんど存在しない。
月額課金制のサービスやアプリやYouTubeで、ほとんどお金をかけず、無限の音楽を聞くことが出来る。
音楽はあまりにも気軽で、ありふれすぎていて、どんどんその重要さは低下している。

だけど僕らは、こんなに世界に溢れかえっている音楽を、本当に経験していると言えるだろうか?
「音楽を味わう」という経験を、一体どれぐらいしているだろうか?
最後に耳を傾けて音楽を味わったのは、いつのことだろうか?
音楽が「素晴らしい気持ち」をもたらしてくれたのは、いつのことだろうか?


僕は今日、人生で久しぶりに、音楽を聴いた。
音楽を聴くという体験を味わった。
そして今まで僕がいかに、音楽聴いていなかったかということが証明された。
人生でも本当に長い間、音楽を「ただ耳に当てていた」ように思う。
だが「音楽を聴く」という行為は「音が耳に触れている」という現象とは、まったく違うものだと気付かされた。


具体的な方法は、次の通りシンプルなものだ。

- 座る(だけど、姿勢はなんでも良い)
- 音楽を流して集中する(イヤホンをつけても、スピーカーを使っても、なんでも良い)

だけど音楽を聴いている間は、この体験に集中する。他のことはしない。

僕のスピーカーの前に座って、他の瞑想をする時と同じようにあぐらを組んだ。
曲は自分の好きなもの、特に穏やかで平和なものを選んだ。
エルヴィス・プレスリーのゴスペルだ。(Elvis Presley - Ultimate Gospel)
そして30分間のタイマーをかけた。
このたった30分間が、本当に素晴らしい経験になった。
(別に必ずこの時間じゃなくても良い、たった5分間だけでも、同じ経験することは出来る)


まるで1日中、果てしなく音楽を聴いていられそうになった。
今もこの記事を書きながら、同じ音楽を流し続けているが、その時の感動は失われ、まったく違った経験だと感じられる。
ついさっきまで「耳を傾けて音楽を聴いていた瞬間」が懐かしい。
このように音楽は「聴き方」によって、まったく別の経験を僕らにもたらしてくれるのだ。


音楽の聴き方は、人様々だ。
アーティストの熱烈なファンであれば、その人の顔が思い浮かぶかもしれない。
音響機材に詳しい人であれば、音質のことが気になるかもしれない。

だが僕の場合は、次のポイントに注意した。

- 音楽が自分に与えてくれる経験、エモーションに注意する
- 音楽によって今の瞬間を味わい、人生の経験のひとつにする
- 音楽にひたる、音と一体化する
- たとえば映画のシーンに使われている音楽のように、音楽が表現している情景を思い浮かべる
- 心地良い音があれば、それを楽しむ

こういった能動的な聴き方をすると、音楽は「単なる音の塊」ではなくなる。
音楽を聴くことが、量的ではなくて、質的な経験をもたらしてくれる。
音楽は、絵画と同じで、言葉だけでは決して表現できない、抽象度の高い世界を僕らに見せてくれる。(君はクオリアを信じるか?)
音楽を聴くということは、日常の世界を抜け出して、より深遠な世界にタッチする行為だ。


この「能動的な聴き方」をしてみて、音楽を聴くということは、人生の経験の質をグンと上げてくれるだろうと感じた。
僕らは時に音楽によって、偶然素晴らしい気持ちになることがある。
たとえば学校の卒業式で音楽が流れたり、たとえば、クリスマスにユニバーサル・スタジオ・ジャパンでツリーを見ながら音楽を聴いた時などだ。
だけどまったく同じ音楽を聴いても、いつでも同じ気持ちになれるとは限らない。
むしろ聞けば聞くほど、感動が薄れて、無味乾燥なものになっていってしまわないだろうか。

だが「素晴らしい気持ち」になるためには、必ずしも特別なシチュエーションは必要ない。
ただ「音楽をちゃんと聴く」だけでも良いのだ。


音楽で「素晴らしい気持ち」になるのは、自分自身が「この体験を味わおう」というオープンな気持ちになっている時だ。
たとえ素晴らしい音楽が流れていても、その体験を味わう気持ちがなければ、経験は退屈なものになる。
(昔、学校の授業でクラシックを聞いて、退屈したことがあっただろう)
つまり逆に考えると「積極的に体験をする気持ち」さえあれば、はるかに多くのものが「素晴らしい体験」の対象となるのだ。
(こう考えると、リーズナブルに多くの音楽が聴ける現代の環境は、本当に素晴らしいものだ。材料はたくさんある!)


「集中して音楽を聴く」という習慣を、ぜひオススメする。
音楽が好きな人ならば特に、これは素晴らしい経験になるはずだ。


ところでこの「体験的な聴き方」の真逆に位置するのは「音楽なんて結局、音の集合にすぎない」という「非体験的な聴き方」だ。
僕も30分の間に、何度か、この感覚に陥りそうになった。
今さっきまで感じていた「意味」が急に失われて、音楽がまったく無意味なものに感じられてきてしまう。
だけど決してこれは、音楽自体から魔法が失われたわけじゃない。
自分自身の注意が逸れて、心の状態が変わったというだけの話だ。

だから僕らは「聴き方」も工夫する必要がある。
工夫すればするほど「聴き方」がうまくなって、音楽でより良い経験を手に入れることが出来ることだろう。



食事を味わって食べれば人生のクオリティがグンと上がる

瞑想を始めてから、僕は食べ物をちゃんと味わうようになった。

そうすると、今まで忘れていた食べ物の美味しさを発見して、感動するようになった。
食事のたびに「何故、食べ物はこんなに美味いんだろう」とため息を漏らしている。
(それに日本は世界一、食事がうまい国だ! 皆、この事実を忘れているだろうが)

瞑想のフォーマルな訓練の中に「食べ物をよく味わう」というワークがある。
そう、マインドフルネスは日常のあらゆる場面に広げられる。

これは決して義務じゃない。
だけどこの習慣は、確実に人生のクオリティを上げてくれる。

思えば僕は、今までの人生のほとんどの場面で、食べ物は半分「口にかきこむだけのもの」だった。
自分ではちゃんと味わって食べていると思い込んでいたが、実は違った。
無意識に「味を感じているだけ」「腹を満たしているだけ」の状態に陥っていた。
(だって、同じ食べ物なら、食べ方によって味が変わることなんてないだろう?)

だけど今では「自分の食べ方」によって、食事という体験がまるで変わることを理解している。

たとえば出かけ中に、コンビニでチキンを買っても、以前ならば歩きながら、味も分からずに頬張っていた。
だけど、歩きながらものを食べると、味の80%は分からなくなってしまう。
そこに存在するのは「ものを食べているイメージ」だけだ。
お金を払ってイメージを食べるなんて、まったくの無駄だ。
だから今では、外で小腹を満たすときでも、立ち止まって食べる習慣が身についた。

「ものを味わって食べる」。
これを時間の無駄だと思うかどうかは、あなた次第だ。
食べ物を味わうよりも、少しでも多くの時間、スマホを触っていたいと思う人もいるかもしれない。
それは自由だ。
だが「食事を味わう」という喜びは、スマホでは得られないものだ。
食事の喜びは、他のものでは代替が効かない。

ところで、食べ物をよく味わう時に意識できるのは、味だけではない。

- 目でよく見る
- 香りを嗅ぐ
- 味を噛みしめる
- 舌触りを楽しむ
- 食事をしている環境を意識する

こういった全ての感覚が、食事を楽しむことにつながる。

こうやって物を味わって食べると、満足を味わうために「何か美味しいものを食べに行きたい」なんて、夢想し続ける必要はない。
なぜなら、目の前にある食べ物全てが、味わう対象になり、胃に満足を与えてくれるものになるからだ。
これは無料で食事のグレードをランクアップさせる方法だ。
(もちろんたまには、お金を出してとびきり美味いものを食べるのも最高だ)

こうやって、食事を「自動的な行為」から「能動的な行為」に戻してみてはどうだろうか。
僕たちの人生のクオリティを上げてくれるものは、決して高額な食事ではない。
すべての食事を「味わう」という習慣だ。


Saturday, December 17, 2016

音楽を聴きながら瞑想するのは邪道?

音楽を聴きながら瞑想をするのは邪道だろうか? 僕はそれも良いと思う。
決してフォーマルな方法ではないけれど。

年末だ。今日僕は、iPhoneの曲をblue tootlhでプレイヤーに飛ばして、クリスマスソングを聴きながら瞑想をした。
これがすごく良かった。新しい発見をした気分だ。

瞑想というのは、言ってみれば「自分の心と付き合う方法」だ。
セオリーはあるけれど、決まったやり方は存在しない。
ならば、そこに音楽が介在していたって何の問題ない。

音楽が関与すれば、心の働きももいつもとは違ったものになるだろう。
ひとつの曲から連想するイメージや、浮かび上がる感情を観察してみることになるかもしれない。

これは僕にとっては、初めての経験だ。

今日は呼吸に集中したり、何も努力をしたありしない。
自由に心を遊ばせて、そしてその働きを観察してみる。

いざ試していると、音楽と一緒に心地良い感覚にひたりながら、僕は自分の存在について内省していた。
いつの間にか、自分が宇宙の中に生きている一員であること、僕が大事に思う人や、知っている人、知らない人が、時を同じくして生きていることに思いを馳せていた。
はるか祖先から脈々と受け継がれてきた遺伝子のおかげで、地球が始まった時から受け継がれてきた歴史のおかげで、いま地球上に自分というものが存在する。
自然とそういう気持ちが沸き起こってきた。とても神聖な気持ちだった。

普通に過ごしていても、1年に1回ぐらいはこんな気持ちになることがあるけれど、瞑想はさらにその感覚を広げてくれた。
そして、たとえ瞑想をしている時はひとりきりでも、生命はひとりきりではないということを感じた。

僕は音楽が大好きだ。
大好きなものと一緒にやる瞑想は、楽しいものになる。


Friday, December 16, 2016

瞑想と風邪

風邪を引いてから1週間。なかなか瞑想に集中できずにいる。
ちなみに風邪の原因は、薄い毛布で身を包みながら寝た夜に、猛烈に空気が冷え込んだからだ。
(瞑想をしているからと言って、いきなり超人になるわけではないだろう)

ところで風邪を引いてすぐの時は、1分の瞑想もできなくなった。体力がもたない。
たとえば歩きながらの瞑想も「歩くことに集中する」よりも「雑念」に身を委ねるほうが楽だった。

それから日数が経って、だんだんと体調が戻ってくるにつれ、瞑想の時間は5分、10分、15分と回復していった。
しかし、ようやく30分坐れるようになっても、まだ雑念が消えていくスピードが遅い。
風邪をひく前のような、集中度の高まりは感じられずにいる状態だ。

逆に、ふだん瞑想をしている時は、相対的には高い集中レベルを発揮していたのだなと気付かされる。
なんとももどかしいが「悪い瞑想はない」と自分を励ます。
運動にもリハビリ期間はあるし、瞑想だって同じだろう。

逆に、瞑想をすることによって、いま自分がどれぐらいのコンディションにあるのかが分かる、とも思った。定点観測のようなものだ。
一見、体力が回復してきているようであっても、瞑想に集中しきれないということは、まだ意識は完全に回復しきっていないのだ。

ひとつ良かったことは、風邪を引いている時は何かとネガティブになりがちだが、その環状のレベルは弱かったこと。
病み上がりに雑念が次々に浮かんできても、そのマイナスの影響度も弱く感じたことだ。

あとひとつは、まさに風邪で寝込んでいる最中に「心地良い呼吸」に集中すると、まるで体調が悪いのが嘘のように、心地良く眠れたことだ。


Tuesday, December 6, 2016

瞑想は心を「無」ではなく「からっぽ」にする

瞑想は心を無にする修行だと、一般的に考えられている。
瞑想を長く実践する人の中にも、これを誤解だと言う人もいうし、逆にそのとおりだと言う人もいる。

これは「無」の定義がそもそも違うのだ。

ただ坐る。
ただ存在する。
からっぽ。
何もしない。

無になるのではなくて、からっぽになる。空(くう)になる。
瞑想の究極の目的は、これだと思う。(もちろん人にもよるだろうが)

そして実は「無」と「からっぽ」には微妙なニュアンスの違いがある。

「無」はそもそも何も存在しない状態。
しかし「からっぽ」というのは「容器」はあるけれど「中身」が存在しない状態。

この二つは似ているようでけっこう違う。
だから人によって「からっぽ」のことを「無」と呼んだりするのだ。

無から有は生まれない。つまり無とは死のことだ。(本当に死が存在するかどうかはさておき)
いちど無になってしまえば、そこから戻ってくることは決して出来ない。
だが自分が容器であれば中身を注いだり、逆に中身を減らしたり出来る。
容器の中身が空になったとき、そいつが「からっぽ」だ。


サーチ・インサイド・ユアセルフ | 命がかかっているように呼吸する

瞑想の本「サーチ・インサイド・ユアセルフ」には「命がかかっているように呼吸する」という表現が紹介されており、最初、僕は首を傾げた。
「命がかかっている」という表現には「ガチガチに体を緊張させて、頑張る」というイメージがあったからだ。
それは瞑想に求められる態度とは全く逆のはずだと思った。

しかし今では「命がかかっている」ということを、別の角度で考えるようになった。
たとえばこう考えてみよう。
瞑想中に集中できなければ、その後に自分は、死ぬ。
「ダモクレスの剣」が頭の上に吊るされており、失敗すればそいつが落ちてくる。
集中するか、死ぬか。二者択一の受胎だ。

このように自分の命がかかっており、それを真剣に遂行しなければならないとき。
人はどうするのが適切だろうか。
おそらく、最も効果的にそれを遂行する手段は「注意」を向けつつ「リラックスする」ということなのだ。

僕たちは「集中する」ということの意味を履き違えている。
単に体を緊張させても、集中状態には入れない。それではただ疲れるだけだ。
かといって単にリラックスするだけでも、集中状態ではない。それはただだらけているだけ。

集中状態に入るには、注意とリラックスのバランスが取れている必要がある。
なおかつ、そのお互いが高いレベルで融合する時に、集中状態は起こる。
どちらかだけが高い状態でも、両方ともが低い状態でも、集中状態は起こらない。
ここで重要なのは「両者を高いレベルでバランシングさせる」ということだ。

たとえば次のような「注意」と「リラックス」のバランスがあるとすれば、集中状態に入れるのは最後の「D」の状態だ。

[A] 注意 強い : リラックス 弱い
[B] 注意 弱い : リラックス 強い
[C] 注意 弱い : リラックス 弱い
[D] 注意 強い : リラックス 強い

厳密に言うと、人は物事に直接「集中する」ということは出来ないのかもしれない。
「集中」というのは、行為ではなく状態だと思う。
人ができるのは「注意を向けること」と「リラックスすること」であり、その結果として「集中状態」が自然と起こるのだ。
これは瞑想の本質にも通じる。
(それが言語的なプロセスを経るか、非言語的なプロセスを経るかの違いはあるかもしれないが)

瞑想においても、集中状態に入るということは、おそらくスポーツ選手が「ゾーンに入る」ということとすごくよく似ている。
人が深い集中状態に入る時、そこには無駄な頑張りはない。むしろ心地良さしか感じていない。
「命がかかっているように呼吸する」には、深い注意と、深いリラックスの両者が必要だ。

僕の瞑想の手順の5段階

1. 呼吸に集中する。心がざわめいていても「5分ぐらいすれば落ち着いてくるだろう」と考える。f

2. 5分ぐらいすると、心が落ち着き、集中が高まってくる。特に、鼻孔の感覚に強く集中する。集中を妨げる思考や感覚があれば、そのたびそれを観察して、また呼吸に集中を戻す。「過去でも未来でもなく、今現在に存在しているか?」と自分に問いかける。

3. 集中が高まってきたところで 「環境の中で、呼吸をしている自分」を意識する。呼吸に集中するのではなく、体全体を集中状態に変化させようと試みる。

3.言葉の重要を下げていく。言葉=自分ではないことに気付く。言葉のバックグラウンドにある「非言語の自分」に気付く。

4. 「ただ存在する」「ただ坐る」「何もしない」状態になろうと試みる。脳の高次元な働きが起こる。自我そのものの働きが理解される。

5. 集中のピークが訪れる。「もうこれ以上は集中できない」と感じた時点で、瞑想を終える。

Monday, December 5, 2016

瞑想にはテクニックが必要だ

今日気付いたこと。

「呼吸に集中しよう」とするよりも、
「集中状態に入ろう」と心がけるほうが、ずっと集中しやすいということだ。
この二つの意図の、微妙な違いが分かるだろうか。

「集中しよう」ではなくて「集中状態に入ろう」だ。
前者はより意識が狭くて、後者はより広いと感じられる。
前者はひとつの対象に意識を集めるが、後者は自分自身の意識全体に働きかけようとする。
この二つは一見似ているようでいて、僕にとって、全く違うニュアンスの言葉となった。

僕は数ヶ月の瞑想を続けて、今までにも心地よい「深い集中状態」を何度か経験している。
その状態を覚えておき、ブックマークしておき、名前をつけて保存しておく。
そして、また必要な時に呼び出すという感じだ。

だから今日僕は「集中した結果」として「集中状態に入る」のではなくて、
「集中した状態」に「直接アクセス」できるようになった気がした。

言うなれば、今まで乗れなかった自転車に乗れるようになった感覚だ。
もう「こういう風に足を動かして」「こういう風にバランスを取って」と意識的に考える必要はなく、ハンドルを切って大きな努力なしに、道を走ることが出来るのだ。
つまり、意識のコントロール方法が一段レベルアップしつつある気がした。

一般的に瞑想では、求めないことが重要だと言われる。
求めるものがあるとすれば、それは「自然と現れる」ものだと教えられる。
瞑想とは、日常とは全く別の脳を使う分野。全くやり方の違う分野なのだと。

だが今日僕が思ったことは、瞑想もある部分、スポーツや武芸と同じ「技法」なのだということだ。
少なくとも、技法的な一面がないなんて、全く言えないはずだ。
そもそも「呼吸に集中する」というテクニックだって、技法の一種類じゃないか。

特に集中力を高め、意識の状態をコントロールするタイプの瞑想の場合。
瞑想はある部分、集中力を鍛える手段だと割り切ってしまっても良いと思う。
技法やコツが分かればどんどん使っていったら良いし、テクニックを使うことを厭わなくても良いと思う。

そしてテクニックを使ってたどり着いた「集中状態」の中で、さらに求めるものがあれば、それを探求してゆけば良いのだ。

たとえば人間関係で重要なのはテクニックではないけれど、全くテクニックがなければ人とは仲良くなれない。
たとえばスピーチで大事なのはテクニックではないけれど、全くテクニックを無視すれば本質は伝わらない。
それとまるで同じとは言えないが、瞑想にも技法は絶対に必要なのだ。

もし瞑想に技法がまったく必要ないならば、今後ずっと、瞑想が上手くなることもないだろう。
より劣った技法よりは、より優れた技法の方が良いに決まっている。
テクニックに溺れては全く意味がないが、テクニックをまったく無視しても瞑想は上達しない。

特に瞑想という分野では、ここに微妙なバランスが要求される。
求めるようであり、何も求めないこと。
集中するようであり、ただ存在すること。
ただ坐るようであり、ただ坐るだけではないこと。

瞑想は脳の高次元な分野を使う。
つまりどうしても「言語を超えてしまう部分」があるのだ。
というよりも、文章解いて書き起こせない、もしくは非常に書き起こしにくいところに瞑想の本質は存在する。

Sunday, December 4, 2016

「呼吸への集中」から「ただ存在する」へとスイッチングする

「呼吸への集中」と「ただ存在する」というのは、別の種類かもしれないと考えている。
お互いは確かに、隣接しあっている部分があると思う。
だが僕が瞑想を続けていると、この二つは基本的に別のもののように思えてきた。

瞑想中に「呼吸への集中」が深まっていくと「ただ存在する」状態へと飛び移りやすくなる。
それはたとえるならば、集中の梯子がだんだんと伸びていって、「ただ存在する」という別の土地にジャンプしやすくなるようなものだ。
呼吸への集中が深まるたび、その距離がだんだんと新しい土地にに近づいていって、最後にはピッタリとくっつくぐらいにまでなるといった感覚だ。
だけど実際に「飛び移るタイミング」がなければ、新しい土地には降り立てないのだ。

そういう意味で「集中する」と「ただ存在する」は隣接しあってるとも言えるし、別々の場所にあるとも言える。

こう考えると「呼吸への集中」は「ただ存在する」という状態にたどり着くため準備なのではないかと、そう僕は考えるようになった。
もちろん「呼吸への集中」は素晴らしいものなのだが、もっと高次元の働きを、瞑想に期待するようになったのだ。

今まで僕は「呼吸への集中」だけを続けていれば、最何か意識の変化があるのではないかと考えていた。
もちろん、自然に意識の変化が現れることもある。そういう意味では、この考えは半分当たっている。
だが「集中」から「ただ存在する」へは、自動的にせよ意図的にせよ、どこかで「スイッチング」がおこなわれるタイミングがあるのだ。

このスイッチングが自動的に行われることもある。
だけどそれならば逆に、瞑想において意図的に「ただ存在する」状態へと、意識をスイッチングさせようと企む事もできるだろう。

「瞑想はそもそも、そういう戦略や意図ををすべて捨てる行為なのではないか?」と考えると、一見このかんげは、矛盾しているように思えるかもしれない。
だがそもそも瞑想を始めるときは「集中しよう」とか「悟りに達しよう」とか、それなりの意図を持って始めたもののはずだ。

なので全ての「意図」が悪者であるわけではない。
僕はまだ、このことについて十分に表現できるだけの語彙を持たないが。
ある意図を持ち、ある意図を捨てる。このふたつを微妙なバランスで両立させるものが瞑想のコツであるような気がしている。

まだまだ瞑想に関しては、分からないことばかりだ。

# 参考

>TYPES OF MEDITATION – AN OVERVIEW OF 23 MEDITATION TECHNIQUES
http://liveanddare.com/types-of-meditation/

Saturday, December 3, 2016

「深い集中状態」から「ただ存在する」感覚へと

以前にも増して瞑想に集中できた朝。
30分は今までになく、あっという間に過ぎた。

瞑想には細かく分けると100個もの種類があるそうだが、すべての瞑想は「何もしない」「ただ存在する」という状態を目指すものらしい。
僕は「呼吸に集中する」という方法で、だんだんと「ただ存在する」という感覚を得るようになってきた。

瞑想を始める。呼吸に集中する。だんだんと雑念が消えてゆく。呼吸と一体になってゆく。
そして「環境の中で、呼吸をしている自分」に気付く。環境の一部として呼吸をしている感覚を覚える。呼吸と自分の関係に気付く。
映画で言えば、カメラの視点が変わり、自分というものを別のアングルで捉え直すようになる。「引きのアングル」で。

そして、だんだんと言葉というものが消えていく。言葉の存在力が弱まっていく。「言葉は、自分ではない」とうことに気付く。
相変わらず言葉のフレーズ自体は、自然に浮かんでくる。だがそのバックグラウンドに「自分」という暖かく、大きな存在があることに気付く。言葉はそのオプションに過ぎない。
この深い集中状態を、おそらく3分間ほどは保てたように思う。

だが、初めての境地、あまり経験したことがない境地というものは怖いものだ。
深い集中状態に入りながらも、同時に、様々な「疑」の心が、言葉として生まれてきた。
「集中しながら雑念が浮かぶ」というのは妙な話かもしれないが、実際にそういう現象が起こるようだ。

「この境地は素晴らしい、絶対に忘れたくない、手放したくない」
「もういちど、この状態にたどり着けるのだろうか、不安だ」
「瞑想を4ヶ月も続けているのに、ようやくこのレベルにたどり着くというのは、遅いんじゃないか」
「素晴らしことの後には悪いことがくるんじゃないか。あと数ヶ月もしたら、瞑想をすっかりやめてしまうんじゃないか」
「この境地にたどり着くまでの”意識的な努力”は辛い。それよりオートマティックに立っどり着きたい。悟りとは自分から目指すものではなく、自発的に現れるものなんじゃないか?」

こんなにも多くの「疑」の心が浮かんできた。
特に「〜を初めて〜ヶ月も経つのに〜の成果しか出ていない」というのは、瞑想中にも、日常的にも、たびたび頭の中に現れてくる疑いだ。

今はまだ、このような疑いの心に答えられるだけのものがない。
そこで思い出す。瞑想は究極的には、何かを求めるためのものではない。ただ「おこなう(そして、おこなわない)」ためにあるものだ。


30分の瞑想が3種類のフェーズに分かれる

最近、30分の瞑想をしていると、いくつかのフェーズがあることに気付いた。

# 段階1. 集中できていないフェーズ

瞑想を始めたばかりで、まだ心が落ち着いていない段階。

# 段階2. 集中が高まるフェーズ

だんだんと心が静まり、集中力が高まっていく。
いつまでも果てしなく集中できるような感覚になる。
日によっては、ここまで達しないこともあるし、達することもある。

# 段階3. 集中力が途切れるフェーズ

集中力を使い果たして、注意がそれるフェーズ。
「残り時間はあと何分だろう?」なんて考えている。


瞑想を何回も繰り返すうちに、だんだんと自分のペースが分かるようになってきた。
しかしピーク時の集中状態は少しずつ強くなっていっているし、集中力が途切れた時の状態も、少しずつ底上げされていっている。