Sunday, November 27, 2016

「観察の瞑想」の本質は誰も言葉で表現できない

今日は珍しく、観察系の瞑想を30分やってみた。
そこで思ったことは、集中系の瞑想と、観察系の瞑想では、求められる心の態度がかなり違うんじゃないかということだ。

もちろん集中と観察は、いずれは「同じ道」につながっているかもしれない。
だけど「より集中に適した心の状態」「より瞑想に適した心の状態」というものがあると思う。

自分は集中する瞑想の方をより多くやっているので、いざ自分の心を観察しようとするときも、鋭い集中力を発揮しようとしてしまっていた気がする。
「観察の対象はどこだ?」「どこにある?」と、ナイフとフォークを扱うみたいに、鋭く探し回っていた。

けれど心を観察するときは、それよりも「ぼやっ」とした方が良いのかもしれない。
心をナイフのようにするのではなく、丸いボウルのようにする。
自分自身を一歩引いて見てみる。前のめりのなるのではなく、一歩後ろに下がる。

こうやって

だが、まだ難しい部分がある。
心を思うままに自由にさせていると、どこからどこまでが「観察」している状態で、どこからどこまでが「考えに没頭している状態」か、分かりづらくなってしまうのだ。
この境目がわからないときは、おそらく「観察できていない状態」だとは思うのだけれど。
「観察できていない状態」のときは「観察できている状態」のことが分からないのだ。

観察の瞑想をうまくやるためには、ナイフのような集中力ではなくて、綱渡りをするようなようなバランス感覚。
薄皮一枚に意識をとどめるような、特定のタイプの集中力が必要になると思った。
もちろん、慣れてくれば大きな努力は必要とせずに「観察の層」に意識をピタッと合わせられるとは思うけれど。

心を思うままに遊ばせるだけでは、観察にならない。
かといって心を集中させすぎれば、それも観察にはならない。
なかなか難しいけれど、うまく自分を観察できているときは、脳の高次な部分が働いているような感覚を覚える。

世の中にはいろいろな瞑想の本が出ているけれど、どれも「観察とはそもそも何なのか」という本質について、核心を語っていないように思う。
それは瞑想における「観察」という働きが高度すぎ、抽象的すぎて、文面では表現しきれないものだからかもしれない。
言葉で表現できないこと、手法が確立されていないことに対して、僕は大きなもどかしさを感じる。

けれど、心の観察を30分終えた今、集中系の瞑想をした後とはまた一味違った、何とも言えない爽快さを味わっていることも事実だ。
もし悟りというものがあるならば、この観察を続けていった先に、それは見つけられるような気がした。





Saturday, November 26, 2016

加工された呼吸からナチュラルな呼吸へ

僕が瞑想を始めた頃は「すーっ」と音を立てて呼吸をしていた。
呼吸のスタイルを意識的に作り出していた。

ある瞑想の本にも「気持ち良い呼吸がベスト」というようなことが書かれており、それを実践したのだ。

これには癒しの効果がある。
そして、呼吸がやや大きくなるので、意識を向けやすくなる。とても良いやり方だと思う。

だが最近は、瞑想中の呼吸を「ナチュラルな方法」に切り替えた。
あえて呼吸のやり方を加工することなしに、体が自然に呼吸するのに任せているのだ。
無加工の呼吸。自然発生の呼吸だ。
この場合、呼吸はより小さく、穏やかになり、より微細になる。

なぜ僕が呼吸の方法を変えたかというと、直接的な癒しの効果よりも、瞑想における集中レベルを重視したいと思ったからだ。

呼吸を無加工にすると、それが微細になる分だけ、注意を向けるのはやや難しくなる。
瞑想の難易度が上がった感じだ。でも、だからこそ集中力の訓練になると思った。

ナチュラルな呼吸は本当に、あやうく気づかないほど微細だ。
でも「頭の名で起こる大きな妄想」よりも、その「微細な呼吸」に集中できたなら、本当に集中できていることの証明になる。
つまり、自分が集中できているかできていないかをより判別しやすくなる。

ちなみに最初に呼吸の仕方をナチュラルに切り替えた時は、直接的な体の癒しが感じられなくなって、戸惑いを感じた。ぜんぜん気持ち良くないのだ。
あとは呼吸の感覚が1/10ほどに弱くなって、集中しづらさ、なんとなくやりづらさを感じた。

だけど今では、よりストイックに「ナチュラルな呼吸」「手を加えない呼吸」での瞑想を実践している。

これは「どちらが良い」「どちらが正しい」ということではないと思う。
なぜなら、瞑想の本質は注意を向けることであり、たとえ「意識的な呼吸」をしていたとしても、注意を向けること自体は実現可能だからだ。

ただ、個人的な感覚でいうと、瞑想の難易度が違ってくる。
より集中力に対して効果が高いのは「難易度が高い方」だと思われる。




Wednesday, November 23, 2016

集中状態には0%から100%までグラデーションがある

呼吸への集中度にはレベルがある。
0%から100%まで、グラデーションで分かれている。
決して「集中している状態」と「集中していない状態」のオン・オフだけではない。

最近の自分は、中級者の罠にはまっていた。
それは「呼吸に集中できていると思い込んでいた」ということだ。

たとえ頭にいろいろな考えが浮かんできて、あえて瞑想中に思考をするときでも。
いざとなれば呼吸に高い注意を戻せると思い込んでいた。

だが改めて集中の瞑想を真面目にやって思ったのは、自分が意識しているよりも、ずっと「集中していない瞬間」は多いということだ。
ただ、それに気づいているか気づいていないかの違いがある。

たとえばダンスの初心者が踊りを覚えて、自分では「完璧なパフォーマンス」が出来たと思う時でも。
それは上級者から見れば、100個も200個ものアラが見つかるものだったりする。
それと同じように瞑想の初心者が「ほぼ完璧に集中できた」と思っても、実はその間に100個200個もの妄想をして、それに気づいていないだけということが起こり得る。

今日の自分は、今までで一番、純度の高い集中状態に入れたと思う。
だけどそれでも、本当に純度の高い集中状態というのは、全体の一瞬だけだった。
他の多くの時間は軽い妄想をしていたり、低い集中状態にあった。
「この瞑想が終わったら、ブログに何を書こうか」なんて考えているのだった。

集中の瞑想をするときに大事なのは、一呼吸一呼吸、まったく新しい気持ちで呼吸に注意を向けることだ。
集中状態には「これで完璧」といった状態は存在せず、より精度と彩度の高い集中は、常に存在する。

たとえば1秒の間、完璧な集中状態を作れたと思っても、そのうちの0.3秒は集中力が逸れていたりする。
どこまでも細かく時間を区切ってゆけば、必ず「集中していない状態」というのは存在する。
人間の意識というものは、そういうものだと思った。
だからこそ、瞑想によって常により深い集中状態を作り上げることが出来るのだ。
全ての武道と同じで「これで100%」という状態は存在しない。なんともやりがいがあって、面白い世界じゃないか。
(エンディングのあるゲームはクリアした途端、つまらなくなる。けれどこれはいつまでも遊べるゲームだ)

「俺は集中できている」「いつでも集中状態になれる」といった慢心を捨てて、1秒1秒に対して、まったく初心に戻って呼吸に注意を向けみよう。
なぜなら言ってみれば「初心に帰る」ことこそが、まさに瞑想の本質なのだから。


集中と観察は双子の兄弟だ

いろいろな瞑想をやってみた結果として、集中系の瞑想がすごく気に入っている。
由緒正しい瞑想の基本は観察系のものらしいが、今現在の僕としては、ひとめぐりして集中系の瞑想が一番フィットしている。

そして、集中と観察とはお互いに、完全に切り離されているわけではないと実感した。
瞑想に集中していく過程で絶対に観察は必要になるし、逆に意識を観察をするのにだって集中は必要だ。
集中と観察は、お互いはまったくの他人じゃない。双子の兄弟みたいなもんだ。

瞑想を始めて、自分の呼吸に集中する。
意識の別のレイヤーで「自分が呼吸に集中しているかどうか」を洞察する。
この「集中しているかどうかチェックする」という行為自体が、まさに観察そのものだと感じる。
理屈としても、自分の意識を観察できなければ、自分が本当に集中しているかどうかは分からないだろう。

これは僕の勝手な考えだが、集中系の瞑想をしているだけでも、ある程度、必然的に観察系の瞑想も同時にすることになる。
瞑想の入り口として「集中」から始めるか「観察」から始めるかの違いはあっても、これを続けていれば、まったく同じとは言わないまでも、ある程度似た境地に、自然にたどり着くような気がする。

そしてさらに言えば、集中系の瞑想は「慈悲の瞑想」にもたやすくつながる気がする。
30分の瞑想を終えると、とても自分の心が安定して、まるで慈悲の瞑想(祈りの瞑想)を終えた時と同じような気分になるのだ。

世の中にはいくつかの種類の瞑想があるが、お互いはお互いに影響し合っている。
ひとつの種類の瞑想をおこなえば、自然と他の瞑想にも好影響が出る。
「集中」「観察」「慈悲(祈り)」の瞑想のそれぞれが、お互いをやりやすくしてくれるのだ。
入り口が違うだけで、辿り着く場所は似ている。そんな感覚だ。

だから僕は、入り口にあまりこだわらないことにした。
その日その日で、基本的に一番自分が「やりたい瞑想」をやってみることにした。
たぶんそれが、一番自分にとって必要な瞑想だと感じるからだ。
(喉が渇いている時は水を飲めば良い。腹が減っている時は食事をとれば良い)

そして自分が一番やりやすいタイプの瞑想を続けていれば、いざというとき、他のタイプの瞑想がやりやすくなっているかもしれない。
とにかく僕はいま「集中系の瞑想」がとても気に入っている。そして、時間をかけてこの瞑想を続けている。




Tuesday, November 22, 2016

瞑想を台無しにしようとする「疑」の心とは

疑の心。

瞑想中は、瞑想自体に対して疑の心が湧き上がってくると思う。
たとえば、次のように。

- 瞑想を続けていて、本当に効果なんてあるんだろうか。
- もう瞑想を4ヶ月も続けているのに、どうしてこんなに心が揺れ動くんだろうか。
- 瞑想をするより、何か他のことをしたほうがずっと有益なんじゃないか。
- もう心が十分安定しているのに、なんでまだ瞑想を続ける必要があるんだろうか。
- 昨日よりぜんぜん瞑想がうまくできていない。続ける意味なんてあるんだろうか。

だが、こういった瞑想自体に対する懸念には「疑の心」という名前をつけてあげる。
そしてこういう懸念さえも、瞑想の観察の対象として、一歩引いて見てやるのが良い。

疑の心が湧き上がるたびに、何度でも適切な処理を繰り返せば。
少しずつ、だんだんと、取り扱いがうまくなってゆくことだろう。

「今に集中する」ということを覚えるために「疑の心」を認識してみよう。

瞑想の中級者の罠 | 薄い感情、薄いイメージも呼吸から注意を逸らす

呼吸に集中するタイプの瞑想の話。

僕が瞑想を始めたばかりの頃は「ネガティブな感情」や「妄想」に、よくとらわれていた。
それはかなり強いもので、逆にそこから抜け出した時には「とらわれていたこと」にはっきりと気付いた。
「大きなマイナス」から「ゼロ」に戻った時に、マイナスの存在に気付くのは当たり前だ。

だが今では、心が安定してきて、そこまで強い感情やイメージにはとらわれなくなった。
だからこそ。感情やイメージが薄らいだ今だからこそ、僕は「注意がそれていること」に気付きにくくなった。

瞑想中、心をよく観察してみると、呼吸に集中しているはずが、ほんの少しの感情や、薄いイメージにとらわれていることに気づく。
僕は最近、彼らを放置しがちだった。
「強い感情やイメージが湧き起こらない=ちゃんと集中できている」といった曖昧な基準だった。

だが感情やイメージが強いか弱いかは、問題じゃない。
感情やイメージが弱いものであっても、それにとらわれれば、呼吸から気をそらしていることには変わりがない。
重要なのは「呼吸に集中できているかどうか」だ。

これからはより微細な心の働きを補足していきたいと思った。
まだまだ不安定な心の働きを知り、繊細な感覚を知り、より自分自身を知るチャンスになるだろう。

そう思いながら瞑想をしていると、ひさしぶりに「呼吸と自分だけになる感覚」を覚えた。たとえるならば、時間の概念が消えていく感覚だ。

Saturday, November 19, 2016

観察系の瞑想では、まず肉体の感覚に集中する

今日は明確な意図をもって「観察系の瞑想」をしてみた。
非常に良い感じだった。清々しい思いだ。

「観察系の瞑想」には、数千年の歴史があるという。
かの有名人。ブッダも実践していた瞑想の方法だ。

今まで僕は「集中の瞑想」「祈りの瞑想」「認知療法的な瞑想」「瞑想しながらの思考」はしていたが、観察系の瞑想をちゃんと意識しておこなったことは、あまりなかった。
そもそも「観察する」とはどういうことか。「気付く」とはどういうことかが分からなかった。
とても曖昧で、とらえどころのないようなものに思えた。
どこからどこまでが「観察」なのか。どこからどこまでが「妄想」なのかが分からなくなる。

観察しようとしても何も出てこない。なんとなく時間が過ぎていってしまう。
だから自分を観察するよりは、祈りの瞑想で自分を改善したり、集中の瞑想で心の平安を得たかった。

だが今日思ったことは、おそらく観察の瞑想は、より脳の高次元な処理をおこなうものだ。
自分の思考や状態を、一歩引いて見てみる。
これは集中系の瞑想よりも難易度が高いように思えるが、時間をかけてやってみる価値はあるようにお

そして気づいたのは、まずは最初に「体の感覚」に注目するのが効果的ということだ。
つい「観察」や「気づき」というと「心の働き」だけに目がいってしまいがちなのだが、まずは肉体の感覚に集中する。体の感覚を思う存分に味わってみる。
そうすると、次に精神の状態もずっと観察しやすくなる。

今まで僕は「体の感覚ね、はいはい、分かってるよ」という感じで、この段階をすっ飛ばしていた。

たとえばすべての武道においても、優れた武道家は、基本の習得に多くの時間をかけるという。
瞑想も同じように考えてみたら良いんじゃないだろうか。


悲しみを感じる時にこそ瞑想で自分を観察しよう

いままた、俺は人生の大きな問題を感じている。

そして、考えた。

「自分を観察する」という瞑想は、大きな問題を感じている時にこそフィットする。

なぜなら、毎日がうまくいっている時は、心に波風が立つことが少ない。
まるで「観察する対象がそもそもない」ような状態なのだ。

だが、強い感情に揺さぶられている時は、心に大いに観察の余地がある。
俺は、書籍「からっぽ」に書かれていることを思い出した。
俺は自分の心の内側にある「悲しさ」の正体を見つけようと試みた。

いま自分が持っている悲しさは、いくら観察をしても、集中をしても、祈りを重ねても、なかなか消えてくれないように思う。
少しずつ強くなったり、弱くなったりということを繰り返している。

瞑想は、いますぐにこの心を癒してくれるわけではないようだ。
だけど、それは問題じゃない。それで良いんだ。
俺は瞑想に魔法のような働きを期待していないし「人生の困難な時にこそ、マインドフルネスを保つのが難しい」ということは心得ている。
そして、心を観察すれば、決して楽しいことばかりじゃないということも。

人生は簡単なことばかりではつまらない。難しいことも時には必要だ。
こいつは大いに、瞑想しがいのあるミッションだと考えた。より自分自身を知るチャンスだと。

もし俺に瞑想の瞬間がなかったら、この悲しみに対して、自分を投げてしまうか、思いのままに嘆き、酒を飲んで紛らわしていたことだろう。
もしくは、時間が流れるままに任せて、癒しの時をただひたすら待っていたことだろう。

だけど今では、瞑想によって「悲しみを観察できる」「悲しみに働きかけができる」という、能動的な武器を得ている。
こいつできっと、より自分自身を理解し、癒しのプロセスを加速させることが出来るはずだ。

心が治るのを、ただ待っているなんて、もったいない。


「マインドフルワーク」 俺と瞑想との出会い

俺と瞑想との最初の出会いは、翻訳書の「マインドフルワーク」だった。
kindle版のサンプルをダウンロードすると、冒頭に早速、瞑想のやり方が書いてあった。

そして本を開いてから5分もせず、早速、そのワークをやってみることにした。善は急げだ。
「呼吸に集中する」「何度でも呼吸に注意を戻す」というプロセスを試してみる。
するとその途端に、心が急速に安定するのを感じ、瞑想というものに強い興味を感じた。
この先には、本当に安定した心の状態が待っているかもしれないと思った。

この本の良いところは、瞑想のいろいろな側面を紹介しすぎず、本当にシンプルなエッセンスだけを伝えているところだ。
だって、初心者の頃から「心を深く観察せよ」とか「自分が存在するということに気づけ」なんて言われても、意味がわからないだろう。
自分は幸運にも、一番最初に、本当に良い本に出会えたと思う。

そして1週間、2週間と瞑想を続けるうちに、今まで落ち着く瞬間などまるでなかった心が、だんだんと平穏を勝ち得ていった。
大げさかもしれないが、本当にずっと長い間、心の平穏なんて1秒たりとも感じたことがなくて、いつでも何かに急き立てられているような感じだったのだ。
その時は特に、大きな仕事上の悩みがあった。だけど瞑想を続けるにつれ、だんだんと職場でも不安を感じることが少なくなっていった。

たとえばその頃は、朝の出勤時に、道行く人の無神経さが本当に気になったり、他にも、ほんの少しの情報にも心を揺らされていた。
朝家を出てから職場に着くまで、30個ものネガティブな思考を繰り返して、疲弊しながらデスクにたどり着くような状態だった。

だけど今は、そんなことはない。

瞑想で心の平安さが増して以来、本当に、以前の自分はイライラしながら過ごしていたんだなと気付いた。
ちょっとした「人の無神経さ」ばかりに敏感になっていたけれど、実は本当の原因は、自分の心の不安定さだったのだ。

たとえば仕事中にも、いろいろな悩みや不安を小刻みに、何度も心の中で繰り返していた。
心の中に、こんなにもネガティブな思考が渦巻いていることに「自分自身が、気付いていなかった」ということにも、気付くことができた。

瞑想は、自分の心理状態に劇的な変化をもたらしてくれた。
今ではもう、自分自身でも以前の状態が思い出せなくなっているぐらいだ。

自己啓発の言葉は、心に響かないことの方が多い。
自己暗示の言葉は、特に逆効果になる。
勇気付けられる映画を観たって、いつも同じように感動するとは限らない。
ポジティブシンキングだって長くは続かない。

だけど「瞑想」は極めて実践的な手法だ。空理空論ではない。
自分の習慣にまで落とし込める、具体的な心のコントロール方法だ。
それが、すごく良い。本当に強力なツールだと思っている。

瞑想を始めた最初の頃は。最初は5秒も呼吸に集中できていなかった。
そして、いつも寝ながらの瞑想をしていた。
それから数ヶ月を経たのち、今では30分間も座りながらの瞑想ができるようになった。
まだまだ人生の課題は大きいが、少しずつ心のコントロール領域を広げて行っている。

全ては「マインドフルワーク」に出会ったおかげだ。


瞑想の本質 - 悪い瞑想は存在しない

瞑想がうまくいかない時も、決して焦ることはない。大丈夫だ。
たとえ何ヶ月瞑想を続けていても、うまくいかない日だってある。それはごく自然なこと。当たり前のことだ。
君が悪いわけでもないし、何かが失敗しているわけでもない。

なぜなら心の状態というのは、実は君が考えるよりも、はるかに振れ幅が大きなものなんだ。
たとえばレベル1の心の状態の日もあるし、レベル100の心の状態の日もあるってこと。
健康状態も、仕事の状態も、プライベートでの出来事も、すべてが「心の状態」を左右して、その日の瞑想のレベルを大きく変えている。

たとえば心がそもそも穏やかで、レベル1の状態なら、瞑想は本当に簡単に思えるだろう。
そして君は「瞑想が上達した」と思って、次の日を迎える。
だけど次の日は、レベル10の心がやってきたりする。
そして君は「瞑想が上手くいかない」「昨日より下手になった」と考えて、自己否定したり、落ち込んだりする。
「なんて自分はダメなやつなんだ」「まるで進歩がない」と自分をなじったりする。

だけど、そんなに焦る必要はない。
人生で時間をかけて、少しずつ心を安定させて行けば良い。

瞑想の効果は、時には劇的だから「これで全てが一瞬でうまくいく」と思えてしまうことがあるかもしれない。
だけど劇的な効果が得られないからと言って、時間が無駄になっているというわけではないんだ。

「悪い瞑想というものは存在しない」
「たとえ瞑想が上手くいかないように思えても、無意識化で大きな影響がある」

つまり、瞑想の効果なんて、実はまったく気にしないで良い。
瞑想をすること自体。心を安定させようとするその行為自体が、瞑想の本質なんだ。




瞑想の本を読みすぎて頭が混乱してない?

最近俺は、瞑想関係の本を多く読みすぎて、なんだかよく分からなくなってきた。
何が正しいのか、何が間違っているのか、何が正解で不正解なのか。

「サーチインサイドユアセルフ」
「マインドフルワーク」
「からっぽ」
「マインドフルフォーカシング」
「ストレス低減法」
「マインドフルネス」
「マインドフルネスを超えて」
「心を整えればシンプルに生きられる」
「今、ここを生きる」
「悟らなくたって、いいじゃないか」
「ブッダの瞑想法」
「本当の自分とつながる瞑想入門」
「1分間瞑想法」
などなど。

より新しい情報、知らないことが知りたくて、いろいろな種類の本を読んだ。

そして分かったことは、瞑想も決してひとつではないということ。
瞑想にもたくさんの種類があり、それぞれのやり方がある。そして、お互いは微妙に異なっている。

要するに瞑想とは、自分の心に対して働きかけること全般を表している。
たとえば武道にも空手や柔道、弓道や剣道などがあるように、瞑想も一種類ではなく、いろいろな種類とやり方があるのだ。

ある書物では「絶対に座禅を組むこと」と教えられ、ある書物では「姿勢はどうでも良い」と教えられる。
ある書物では「かゆくなっても体をかいてはいけない」と教えられ、ある書物ではその逆が教えられる。

瞑想中、みずから心に働きかければ良いのか。それとも、心の働きのままにそれを観察すれば良いのか。
呼吸は「心地良さ」を目指しておこなえば良いのか。それとも「ごく自然な、手を加えない呼吸」が良いのか。
瞑想はだんだんと心地よくなっていくものなのか。そうではないのか。
鋭い意識で呼吸に意識を向ければ良いのか。それとも環境の中にいる自分と、その呼吸に意識を向ければ良いのか。
祈りの瞑想の効果はすぐに消えてしまうのか。そうでないのか。
何が優れていて、何がそうでないのか。最も重要なものとはなんなのか。

俺はだんだんと分からなくなっていった。
心をシンプルにするために瞑想を始めたのに、逆に瞑想が心に混乱を起こしている部分がある。

だけどこんな時こそ、瞑想的な考え方を発揮すべき時なのだろう。

それは「自分のことは、自分で決める」ということ。
あとは「効果的に働いていたら良いし、そうでなければ悪い」ということだ。
つまり、自分の心に問いかけてみるのが一番良い。

きっと、心に決めさえすれば、この瞑想のいろいろな情報の中から自分に合ったものを見つけて、自分なりの態度、そしてベターなメニューを組み立てられることだろう。
それまではちょっとだけ試行錯誤が続くかもしれない。だけどこれは、より良いものを見つけるための、一時的な混乱だと考えている。

Have a good meditation!

瞑想への集中を忘れかけていたモンキーマインド

瞑想には大きく分けて二種類がある。
「集中系の瞑想」と「観察系の瞑想」だ。

書籍「マインドフルワーク」で紹介されているのは、この中の「集中系の瞑想」であり、これが俺の瞑想の出発点だった。

世の中の他の本だと、観察系の瞑想が、重要であると教えられているものが多い気がするけれど。
個人的にいうと最近は、集中系の瞑想の重要さが改めて身にしみている。

最近、俺は瞑想に全く集中できていなかった。
心がさまようままに任せていたきらいがある。

人生で解決したい大きな問題があったのだ。
そして、瞑想中もそのことを考えるためにエネルギーを費やしていた。
瞑想中に何か良いことを思いついたら、すぐにPCを開いてブログを書き始めたり、調べ物を始めたりしていた。
「まったく瞑想じゃないじゃないか」と思われるかもしれないが、それはそれで、瞑想中に良い着想を得たりしていたのだ。

だが、あまりにも集中が抜け落ちていたように思う。
「呼吸なんかにはいつでも集中できるし、まあまあの集中力で良いんじゃない?」という気持ちでいた。
そして、完全に澄み渡った意識、濁りのない意識状態でいること、それを心がけることは忘れてしまっていた。

というよりも、集中系の瞑想をしようとするとすぐに眠くなってしまって、たくさん睡眠をとった後に、ようやく瞑想に集中できるようになったという感じだ。

そして改めて「呼吸だけ」に意識を向けていると、いかに最近の自分の心が濁っていたか、モンキーマインドに囚われていたかが分かるのである。

瞑想だって、バランスだ。
集中だけしつづけてもバランスに欠けるし、観察ばかりしつづけてもバランスに欠ける。
そして「何がバランスが良いのか」というのは、他の誰でもない、自分自身で決めるものなのだ。